桃井原っぱ公園の歴史関連の記事が、何か所かに分かれてしまったのでまとめた記事を作りました。
中島飛行機東京工場から桃井原っぱ公園への変遷の歴史です。
「この地は、かつて中島飛行機株式会社の原動機工場が建ち、国産第1号の飛行機用エンジンをはじめ、当時世界に名を轟かせた零戦のエンジンも設計・製造されました。戦後、幾多の変遷を経て日産自動車株式会社荻窪工場となりましたが、その間日本のロケット第1号も開発されています。その後工場は移転、跡地は売却されることとなりました。」
そして、「公共性の高い跡地利用を望む日産自動車株式会社に対し、区は「防災公園街区整備事業」を活用して防災公園と市街地を一体的に整備するために、現UR都市機構に事業を要請。地域の方々と検討を重ね、跡地の利用方法や公園の内容を決定しました。」
大正14年 中島飛行機株式会社東京工場開設
昭和41年 日産自動車株式会社荻窪工場開設
平成10年 工場移転
平成12年 跡地の計画検討開始
平成13年 公園の都市計画を決定
平成14年 桃井原っぱ広場暫定公開
平成15年 市街地整備工事着手
平成17年 懇談会による公園検討開始
平成21年 公園整備工事着手
平成23年 公園開園
杉並区の案内版より
中島飛行機
大正15年にこの地に中島飛行機株式会社東京工場開設が開設されるまでの経緯です。
※東京工場は、現桃井原っぱ公園です。

中島飛行機東京工場(昭和16年)「総集版荻規模の記憶」荻窪地域区民センター協議会)
中島飛行機を誘致から終戦
中島飛行機創設者である中島知久平航空機の将来性に着目し海軍を退職、日本初の水上飛行機を設計し群馬県太田市に飛行機研究所を設立し中島飛行機へと発展
井荻村では、関東大震災後の移住者が増え、村長の内田秀五郎が土地区画整理を開始し、公害防止を条件に中島飛行機工場を誘致
工場が建つ前までは、一帯は練馬大根の畑で、街の工場は鍛冶屋か宿町に鉛筆工場があった程度だったが、後の日産自動車の工場も含めて二つの工場の誘致は、雇用の創出、賃家の増加、地元商店での購買などで地域の発展に貢献しました。
(農家の次男、三男や地元出身者を積極的に雇用し、1937年(昭和12年)には5500人の従業員の働く大工場に成長)
中島飛行機は、陸軍の「隼」や「疾風」など生み出す一大企業に成長し東京工場で、国産初のプロペラ式航空エンジン「寿」を開発しています。
中島飛行機は、優れたエンジン技術と機体設計により、一式戦闘機「隼」、四式戦闘機「疾風」、九七式戦闘機、局地戦闘機「紫電」「紫電改」(設計・製造)、夜間戦闘機「月光」など戦前・戦中に陸海軍の主力戦闘機を数多く生み出しました。
中島飛行機は、機体だけでなくエンジン(発動機)の製造でも日本屈指の技術を誇り、三菱重工業が開発した「零式艦上戦闘機(ゼロ戦)」にも中島製のエンジン「栄」が搭載されており、ゼロ戦の全生産数の約3分の2は中島飛行機の工場でライセンス生産されていました。
1944年戦況の悪化を予感した中島知久平は、戦争を終わらせるために構想した幻の超大型戦略爆撃機「富嶽(ふがく)」の開発に着手するも中止となる。
同年、中島飛行機武蔵工場(武蔵野市)にB29の襲撃を頻繁に受けます。
余談ですが、中島飛行機武蔵工場と東京工場との爆撃の被害の差ができたかその原因となるものの考察です。
武蔵工場の被害が大きかったのは
- 武蔵野製作所は、ゼロ戦の「栄」、疾風の「誉」など主力戦闘機のエンジンの約3割を1ヵ所で製造する日本最大の巨大工場だったので、最優先の破壊目標に指定された
- 武蔵野の工場は、広大な敷地を持ち見つけやすく、近くを流れる多摩川や直線的な玉川上水が格好の目印となり、アメリカ軍の爆撃機はレーダーや目視で極めて容易に工場を特定することができた
- 当時の東京工場は、飛行機のエンジン開発の発祥の地でしたが戦争の拡大に伴い武蔵野工場に生産拠点が移り、新しいエンジンを設計・テストする研究所、生産数の少ない試作工場や管理事務の色彩が強くなり武蔵野工場より危険視されなかった
- 武蔵野工場より敷地狭く周りに住宅や商店があった
- 周辺に中島飛行機の工場を守るための高射砲(対空砲)陣地が多数配置されていた
- アメリカ系の衛生病院が近くにあり、誤爆するといけないので爆撃しなかった(仮説)
※東京工場は、B29の爆撃でも機械そのもの被害が少なかったのでそのままプリンス自動車工業、日産自動車アイ・エイチ・アイ・エアロスペースの工場として再建出来たが、中島飛行機の武蔵製作所(武蔵野市)は、繰り返し狙われ東京工場より爆撃のダメージが大きく工場の躯体だけ残ったので米軍宿舎として活用した後、都立公園になった経緯があります。
航空機から平和産業への転換(1945年〜)

終戦直後、1945年8月に「富士産業」へ社名を変更し、飛行機の余った資材(ジュラルミンなど)を使い、鍋、釜、リヤカー、ミシン、さらには農業用発動機などを製造して戦後の混乱期をしのぎました。
GHQの命令により軍用機の製造が全面的に禁止され、東京工場は生き残りをかけ技術を平和産業へ転用します。
1950年、GHQの財閥解体命令により、富士産業は12社に解体・分割され、このとき東京工場(現桃井原っぱ公園)と三鷹工場が独立して生まれたのが「富士精密工業」です。
中島の超精密な工作技術を活かして作られた家庭用ミシン「リズムミシン」が市場で高い評価を受け、会社の経営を支えました。
電気自動車を作っていた「たま自動車(のちのプリンス自動車)」から依頼を受け、ガソリンエンジンの開発・供給をスタートし再び「発動機の中島」としての本領を発揮し始めます。
名車「スカイライン」の誕生(1954年〜1965年)
1954年、富士精密工業は「たま自動車」を吸収合併(のちに社名をプリンス自動車工業に変更)し、東京工場は自動車開発の一大拠点となります。
元航空技術者たちの手によって、日本を代表する名車「スカイライン(1957年)」や高級車「グロリア(1959年)」がこの地で設計・開発されました。
自動車開発と並行して、1954年からは糸川英夫教授とともに「ペンシルロケット」の開発・実験をスタート。後の日本の宇宙開発の基礎をここで築きました。
日産自動車との合併とロケットの聖地へ(1966年〜2001年)
政府の自動車業界再編の動きに伴い1966年にプリンス自動車は日産自動車と合併
荻窪の工場は日産自動自動車の乗用車開発部門が他へ移転した後は、工場全体が宇宙ロケット開発の専門拠点へと完全にシフトし、1970年、日本初の人工衛星「おおすみ」を打ち上げたλ(ラムダ)ロケットをはじめ、M(ミュー)ロケット、H-I、H-IIロケットの固形燃料補助ロケットなど日本の主力ロケットの多くがこの東京工場で製造・テストされました。
(日産となった後も、プリンス出身の技術者を中心に「スカイラインGT-R」などの開発が東京工場で続けられました)
(AIの概要より引用したものがあるので、加筆、訂正するかもしれません)
2002年〜現在

管理棟前のひまわり
2000年、日産自動車の宇宙航空部門がアイ・エイチ・アイ・エアロスペース(IHIグループ)に譲渡されたことをきっかけに、工場の移転が決まります。
2002年、約70年にわたる東京工場でのモノづくりの歴史に幕を閉じ工場は群馬県富岡市へ移転し広大な工場跡地は売却されることとなり、日産自動車は、 跡地の売却について公共性の高い跡地利用を望み区は防災公園と市街地を整備し現在の桃井原っぱ公園とURの住宅群になります。







