西荻窪・地蔵坂(善福寺川・原寺分橋)

地蔵坂

西荻窪の善福寺地蔵坂の記事です。

スポンサーリンク

善福寺の地蔵坂・原寺分橋付近

原寺分橋

善福寺川に掛かる原寺分橋から南へ西荻北4丁目の地蔵坂交番前までの約200mの坂を「地蔵坂」といい坂名の由来は、かつて坂の途中に地蔵堂があり、地蔵菩薩、庚申塔、馬頭観音が祀られていたからです。

江戸時代中期から地蔵坂と呼んでいますが、実は、地蔵坂の別名は、御立場坂(おたてばざか)、寺分坂(てらぶざか)と二つあり後に一般には坂の途中の地蔵堂に因んで地蔵坂というのが通称になったようです。

原寺分橋

原寺分橋と女子大通り方面へ続く道

原寺分橋の橋には寺分の名前が残り、善福寺川よりも北は「寺分」、南は「原」という地名であったので、原寺分橋だそうです。

地蔵坂の別名の「御立場坂」は、地蔵坂上の旧家が将軍御鷹狩りの際の御立場(休憩所)になったので付いた坂名で、もう一つの「寺分坂」は、土地の人達が寺分(善福寺)に行く坂ということで寺分坂と呼ばれていました。

萩

原寺分橋の辺りの面白い歴史が井伏鱒二の『荻窪風土記』(新潮社)にありました。

明治3年4月に皇太后陛下が馬車で小金井堤の桜見物に行啓の途中、青梅街道から八王子道(女子大通り)へ入って間もなく馬車が暴走を始め原分橋で急停止した。馭者(ぎょしゃ)がほっとして辺りを見ると馬がカマツカの花を咲ける様子で立っていた。このカマツカの木は、牛コロシともいい、三多摩方面ではヤッンボウの木いうそう。枝の伸びが速い木で春は嫌な臭いの白い花を咲かせ、秋は、赤い実を結ぶ落葉小喬木で、折から花を咲かせていたので嫌な臭気がしたのだろう。(中略)原寺分橋の所にあった牛コロシの木は、吉祥寺方面から来る牛車の牛を暴れさせることがあった。吉祥寺村の百姓は、上井荻村の村長に願い出て、牛コロシの木を切ってもらった。それから2.3年は切り株から出る脇芽を吉祥寺村の者が摘んでいたという話が残ってっている。

というもので、「原寺分橋付近に牛コロシの木が生えていた以上、この辺りの木立は深山の面影のある幽玄な地であったと思っていいだろうとあろ」と井伏鱒二は書いていますが、今は、井荻公園に木々や緑は残るが、辺りは住宅地になっていて全く当時の面影はないです。

icon-arrow-right 「井荻公園」崖の高低差を上手く利用して、植物も楽しめる公園

カマツカの花

「牛コロシ」とは、バラ科の落葉小高木である「カマツカ(鎌柄)」の別名です。カマツカの花

また「杉並歴史探訪」森泰樹著(杉並郷土史会)によると

地蔵坂の畑では、大たらいに善福寺川の水を「肥たが」こやし桶で運びトツクズと鮫皮で大根を洗った。杉並区内は、練馬大根の産地で生大根、干した大根にしていたが、明治中期から「たくあん漬け」にして出荷していた

ということで、地蔵坂の周辺は大根が栽培され、善福寺川の豊かな水を使ってたくあんが作られていたました。

善福寺川

右は、善福寺川。左は杉並区立荻窪中学校

原寺分橋から善福寺川に沿って源流の善福寺公園まで歩道になっていて、人がすれ違うのやっとで自転車だとすれ違うのが難しい通路のような狭い道です。

原寺分橋付近の湧水

原寺分橋付近の湧水

原寺分橋から善福寺川の下流に向かって川をのぞくと善福寺川の湧水の一つが川底から湧いているのが見えます。

東京都建設局のサイトによると原寺分橋下の湧水量は、1,600~4,500mm3/日(0.018m3/s)だそうです。

icon-arrow-right 善福寺川の水源を訪ねる旅 関根橋~美濃山橋

地蔵坂遺跡

地蔵坂交差点に近い台地の先端部付近は地蔵坂遺跡と呼ばれ、昭和56年~57年(1981年~1982年)に実施した発掘調査では、旧石器時代(約18,000年~27,000年前)のナイフ形石器やスクレーパー(掻器(そうき))など多数の石器類と礫群(れきぐん)(調理や焚き火の跡)、縄文時代早期(約9,000年前)の土器や石器が多数出土しており、住居跡や炉穴(屋外炉)も検出されています。

特に、荻窪中学校の校庭から発掘された縄文時代早期前半の住居跡は、区内で初めて発見されたもので、考古学的にも大変貴重です。                杉並区教育委員会

このように辺りは、旧石器時代には善福寺川の近くで狩りのキャンプをし、縄文時代には台地の上に家を建てて暮らして、善福寺川と地蔵坂の土地は川を中心に人々の暮らしを支える場所だったことが伺えます。

縁結び童子

縁結び童子

荻窪中学校の地蔵坂に面した東側に六童子の1つ「縁結び童子」(杉並区善福寺1-8)があります。

2009年の春に西荻窪商店街がまちの活性化のために設置したブロンズの彫刻で「せんと君」で有名な藪内佐斗司氏の作品で

「今は知らないあなたとあなた ぼくが繋いであげようか ご縁のいとの両端を結べばできるえにしのわ」

と書いてあります。

icon-arrow-right 西荻窪にあの「せんとくん」の兄弟がいる?西荻・六童子

地蔵堂

「地蔵坂」の名称の由来は、かつて坂の途中に地蔵堂があり地蔵菩薩や庚申塔、馬頭観音などが祀られていたことにあります。

いつ頃から地蔵坂とよばれていたかは不明ですが、舟形を呈した享保17年(1732年)銘の地蔵菩薩があることから、江戸時代中期以降と考えられます。また、地蔵菩薩は北を向いていたところから、「北向地蔵」とも呼ばれていたそうです。他には、貞享2年(1685年)銘、宝永2年(1705年)銘、正徳6年(1716年)銘の庚申塔、文政7年(1824年)銘の馬頭観音などがありました。
この馬頭観音には、「東江戸」「西ふちう」と彫られており道標の役目をしていました。近代になってからは東多摩郡井荻村、豊島郡石神井村、北多摩郡吉祥寺村の3郡の境に立てられていたため、「3郡境の馬頭様」と呼ばれていました。現在これらは、観泉寺(今川二丁目16番1号)に安置されています。                        杉並区教育委員会

区画整理などで、現在では、地蔵菩薩、馬頭観音、庚申塔は、観泉寺(今川2丁目18番)に移動して安置されています。

icon-arrow-right 観泉寺・西荻北の地蔵坂から移された石仏

観泉寺に移された地蔵菩薩(北向地蔵)

観泉寺に移された地蔵菩薩(北向地蔵)

地蔵菩薩は、北を向いていたことから「北向地蔵」と呼ばれていたといいます。

観泉寺に移された馬頭観音と庚申塔

観泉寺に移された馬頭観音と庚申塔

地蔵坂の堂宇にあった馬頭観音や庚申塔には「東江戸・西ふちう(府中)」と彫られており道標の役目をしていたようです。

井荻会館

原寺分橋から南へ170mほど行くと左に「井荻会館」があります。

ゼニアオイ

入り口横の道路沿いに咲く初夏のゼニアオイ

井荻会館は、明治40年~昭和初期にかけて旧井荻村の村長を務めた内田秀五郎によって建てられたといわれています。

井荻会館

井荻会館

築90年程の貴重な木造平屋建ての昭和初期の面影を残すコミュニティ施設で、現在は、地域住民の集会やサークル活動に利用され、定期的に骨董市やアートイベントが開催されます。

シュウメイギク

秋のシュウメイギク

井荻会館の入り口や敷地周辺には、季節の草花や風流な植物が植えられときどき花の写真を撮らせて頂いています。

萩と蝶

井荻会館から少し歩いた坂の上の西荻北4丁目の交差点が地蔵坂の終点「地蔵坂交差点」です。

地蔵坂交差点

坂上の交差点の名前も地蔵坂

その交差点の西側に近隣住民に親しまれている「やぶ平」という昭和の佇まいのお蕎麦屋さんがあります。

やぶ平の天重

やぶ平で「天重」を食べましたが大きくて立派な海老は、プリプリして甘めのタレとよく合っていました。

icon-arrow-right 地蔵坂『やぶ平』・お蕎麦屋さんだけど「天重」食べたら美味しかった!

〈参考資料〉

  • 「杉並区郷土史会開放」
  • 「史跡見学会 住宅地・杉並はここから 井荻を知る」杉並郷土史会

しぼり菜リズム(まとめ)

善福寺川の原寺分橋から南へ地蔵坂交番前までの坂が地蔵坂で、かつて坂の途中に地蔵堂があったことからその名がついています。

原寺分橋付近は、旧石器時代にから人が住み明治の頃まで木立は深山の面影のあったようです。

原寺分橋から善福寺川の湧水の一つが川底から湧いているのが見え、坂の途中には六童子の1つ「縁結び童子」や歴史ある井荻会館があります。

が見え、坂の途中には六童子の1つ「縁結び童子」や歴史ある井荻会館があります。
にほんブログ村 地域生活(街) 東京ブログ 杉並区情報へ 中野~西荻窪ランキング
スポンサーリンク

ABOUTこの記事をかいた人

2017年現在57才 50代になって体に色々な変化が起きました。 アレルギー、腰痛、変形性膝関節症、脂漏性皮膚炎、手湿疹、眼精疲労、胃腸の不快感、開帳足等々一気に吹き出しました。 このほかに病気以前、未病のものもあるので 自分の体を見つめ直した生活を考えています。 健康、医療、病気、楽しいことも含めた日常生活を綴っていきたいと思います。 認定医療コーディネーター、ホームヘルパー びわの葉療法インストラクターの資格保有