(蝶晩年の大作「舞楽図・唐獅子図屛風」(メトロポリタン美術館蔵)屏風の表面が「舞楽図」で、裏面が「唐獅子図」で両面を見ることが出来ます。)
「没後300年記念 英一蝶」(サントリー美術館)へ行きました。
英一蝶(やはぶさいっちょう)
英一蝶(やはぶさいっちょう)(1652~1724年)は、江戸時代の絵師ということは知っていたがどんな絵を描いていたかは全く知りませんでした。
経歴を調べると京都で生まれ江戸を中心に活躍していて俳人の松尾芭蕉や宝井其角と交友を持ち自らは暁雲(ぎょううん)という号で句を残していて、 町人文化が最も華やかだった元禄時代を中心に活躍しています。
幼少期から絵の才能があり狩野派に学び絵の教育を受けていますが、狩野派の枠に捉われず江戸の活気や町人の暮らしや表情を描く「風俗画」を描くようになります。
幕府の御用絵師集団狩野派で鍛えられた腕前なので、風俗画の名手でありながら仏画や狩野派の画法に従った正統派の絵画の名作もあるようなレパートリーの広さが特徴的です。

「睡猫図」17世紀
一蝶の初期の作品である全三十六図から成る「雑画帖」は、山水、人物、花鳥、獣、戯画、風俗画と多くのモチーフを描いているのを見ると何を描いても上手い人だと思いました。
「睡猫図」のまん丸の寝姿の三毛猫の思わず撫でてしまいたくなるようなふわりとした毛並みの表現力がいいですね。

「投扇図」17世紀
中でも一蝶の真骨頂はやはり、日常の一コマを切り取ったユーモアたっぷりの風俗画です。
「投扇図(とうせんず)」は、鳥居の隙間めがけて投げた扇が狭い島木と貫の間を通る様子を指さし見上げて反る人がユニークで微笑ましくなります。
「四条河原納涼図(しじょうがわらのうりょうず)」も川床でくつろぐ人々の中に酒がこぼれないよう盃を高く掲げながら水面をのぞき込む男がいたり、「僧正遍昭(そうじょうへんじょう)落馬図」では六歌仙の一人である僧正遍昭が乗馬中に女郎花(おみなえし)に見惚れて落馬し、落馬した態勢のまま尚、その女郎花を見続けているのが笑えます。
(「女郎花」は、「女性」を表す花です)
こんな絵を見るとつい他の絵も何か面白いものがあるのではないかとまじまじ見てしまい、いわくがありそうな人物を探してしまいます。
島流し
実は、一蝶の人生は波乱に富んでいて、吉原遊郭で名うての太鼓持ちとして活躍したばかりか、それがあだとなって、三宅島に島流しとなりました。
(絵師でありながら太鼓持ちというのも興味深くその波乱万丈の姿は、講談の主役として語り継がれいます)
罪人を離島に送って生活させる流罪は、死刑に次ぐ重刑で刑期は無期が多く、一蝶の場合は諸説あるが遊郭の牢屋に入れられたこともあり色町での人脈が広がっていたことがトラブルの原因になったようですが、罪の重さから時の将軍徳川綱吉の逆鱗に触れたとも考えられます。
このときは、絵師として絶頂期だったので、積み上げた絵のキャリアも失い二度と江戸に戻ることは叶わないと絶望の淵に立たされたに違いないです。

「神馬図額」 1699年頃
島流しは強制労働や自給自足の厳しい生活をイメージしますが、罪人がどんな職業や身分だったかまた罪によっても違いますが、島に流されても手に職がある者はそれを活かして食いつなげるものもいて、一蝶の三宅島での生活は、そちらの部類だったようです。
実際の一蝶は、配流中も自由に制作に取り組んでいて江戸の知人からの注文を受けて風俗画を描き、三宅島や近隣の島民のために神仏画や吉祥画などを描き糧を得ていました。
江戸からは、注文と同時に貴重な紙や絵具が送られて来て制作に困ることはなかったそうです。
島での生活の中で「七福神相撲図」や吉原の様子を描いた絵巻「吉原風俗図巻」、御蔵島の神社に納めらた額「神馬図額」など画業は最盛期を迎え「島一蝶」と呼ばれ高い評価を得ています。
江戸の遊興生活を題材にしたものなど過去の自身の放蕩を島で絵にする切なさや江戸を思う気持ちもあったでしょう
一蝶はいつも江戸の方角へ机を向け、創作活動をしていた(「北窓翁」の雅号あり)と伝わります。
江戸への帰還は絶望視される中でも滑稽な作品を描いたこともあり、きっと一蝶は、絵の中では自由で心を解放させていたので辛さを感じさせない絵になっていたのかもしれません。
一蝶は、三宅島に梅田家というパトロンがいて(梅田藤右衛門宛の書簡を展示)絵を描いて金銭を得ていたり、江戸の支援者や宝井其角との友好、絵を買ってくれる島民と人に恵まれ、この人は、想像するに人を寄せるような人たらしだったのかと思ってしまいます。
江戸での太鼓持ちの才にしても犯した罪も人が絡むもの。島で名主の娘が一蝶の子を身ごもった話もありきっとそうに違いない
そう思って絵を見ると何だか絵まで人たらしの絵に見えてしまうのは気のせいでしょうか?
再び江戸へ
一蝶は、島流しから12年後に綱吉が亡くなったことで奇跡的に恩赦となり江戸に帰還します。
江戸に戻ってからも精力的に絵を描き晩年に傑作が生まれています。

「舞楽図・唐獅子図屛風」のうち「舞楽図」部分
「舞楽図・唐獅子図屛風」(メトロポリタン美術館蔵)は、表面が「舞楽図」で裏面が「唐獅子図」で両方見ることが出来ます。
小さい作品が多い一蝶の中で珍しい大作で、狩野派の伝統的な画題であるが人物の顔は一蝶風で親しみが持てます。
よく見ると衣裳も模様も細かく制作に労力や時間を費やしたと思われます。

「釈迦十六善神図」 18世紀
近年発見された「釈迦十六善神図」は、一蝶の絵では珍しい仏画でとっても極彩色です。
一部の隙もないくらい緻密な描写で、固く生真面目な仏画だけどそれぞれの顔の表情は、緩めで一蝶らしいです。

「雨宿り図屛風」東京国立博物館
江戸に戻ってから仏画や狩野派の画法に従った(花鳥画や風景画、物語絵や故事人物画など)古典画題にも取り組むようになり「風俗画を描かない宣言」をしているも実際には、風俗画も描いています。
本展では、メトロポリタン美術館のものと東京国立博物館「雨宿り」を主題にしたものが展示されこれらは、風俗画の到達点のような作品になっています。

「雨宿り図屛風」部分
一蝶はユーモアたっぷりに躍動する等身大の姿を描くのはお手のものなので、こういう作品の登場人物一人一人を追いたくなります。
絵の中の人が多いので家に帰ってパンフレットなどで改めて眺めるとやはり、突然の雨に降られて軒下に集まる老若男女の表情やポーズがそれぞれ面白いです。
「屋根の梁にぶら下がる子ども」は、会場に拡大図のコピーがありすぐ見つけることが出来ました。
困り顔で空を見上げる人、破れた傘の隙間から外の様子を覗く人、談笑する人…見ていると絵の中から賑やかな歓声も聞こえてくるようです。
花売り、琵琶法師、獅子舞、魚売り、武士と身分や職業も様々、犬や馬までいてこの平和で長閑な居心地よさそう空間は、一蝶が晩年に得た安寧の境地だったかもしれないです。
繊細な感受性に加え、太鼓持ち芸人のマルチな才能や遊郭での遊びの体験、20代で芭蕉との出会いで俳諧と結びついた観察力がこのような風俗画に生きているのでしょう
また、この絵の魅力は一蝶の俗っぽさや町絵師らしい描写のほかに雨に濡れた樹木の潤いや湿気を含んだ空気のみずみずしさの表現にもあり、その両方が出来るのが一蝶ではないでしょうか
しぼり菜リズム(まとめ)

「没後300年記念 英一蝶」(サントリー美術館)へ行きました。
一蝶は、狩野派に学んでいますが、狩野派の枠に捉われず江戸の活気や町人の暮らしや表情を描く「風俗画」を描くようになり風俗画の名手でありながら仏画や狩野派の画法に従った正統派の絵画の名作もあるようなレパートリーの広さが特徴的です。
一蝶の人生は波乱に富んでいて、三宅島に島流しとなりながらも島でも絵を描き「島一蝶」と呼ばれる評価の高いものを残しています。
恩赦で江戸に戻ると精力的に描き、仏画や狩野派の画法に従った(花鳥画や風景画、物語絵や故事人物画など)古典画題にも取り組むようになりました。
風俗画も描いていて、「雨宿り図屛風」は、風俗画の到達点のような作品も生まれました。
■「没後300年記念 英一蝶」
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- 会期:2024年9月18日~11月10日
- 会場:サントリー美術館