父と母に戦争の体験談を聞きまとめてみました。
今回は、母の戦争の記憶です。母は、終戦時12歳で高等女学校の1年生(現在の中学1年)でした。
母も父と同じように終戦前の食糧難を経験していません。愛知県の豊橋市の農家(祖母の実家)に疎開していたため食べ物は豊富にありました。
母の叔父が川で鰻を捕ってきたリ、飼っていた山羊の乳を搾ってくれたり、鶏の卵を調達してくれたりと「たんぱく源」も事欠きませんでした。(ただし母は、食わず嫌いでそういったものは一切、食べなかったそうです)
野菜や果物も自給していたので、いつでも食べることが出来ました。
疎開先の月明かりの中で見た
母は、小学校高学年になり、一家4人で祖母の実家の農家に「疎開」していました。
母が、疎開している間にそれまで住んでいた名古屋の自宅が「空襲」で焼けてしまいました。疎開先には養蚕小屋があり、そこに「兵隊さん」達が集団で寝泊まりしていたそうです。
母は小学生だったので、若い兵隊さんに可愛がられてよく遊んでもらったそうです。名前は忘れたが、イケメンの兵隊さんがいて、今でもその人の顔をはっきりと憶えているそうです。
ある月が燦燦と明るい真夜中にたまたま母は、目撃しました。(屋外のトイレに行こうとしていたらしいです)
30人位の兵隊さん達が庭に一列に並ばされて、偉い人に次々と往復ビンタをされているところをです。大勢のいい大人が一斉にビンタをくらっている現場は、子どもだった母にとって衝撃的な光景だったようです。
近所の畑で「さつま芋」を盗んだ一人の兵隊のために全員が連帯責任を取らされて叩かれていたことを母は後から知ったそうです。
豊川海軍工廠の秘密
空襲
母は、父と違い「空襲」も体験しています。
女学校1年のときに疎開先の農村地帯から市街地(豊川市)へ住まいが変わり、煎った豆を巾着袋に入れそれを持って何度も「防空壕」に避難しました。
昭和20年6月19日、B29による爆撃で624人の市民が亡くなった「豊橋大空襲」のときは、街を焼き尽くす炎で深夜に関わらず、字が読めるくらい空が明るかったそうです。
豊川工廠の参事
そして、母が誰にも言わないでと教えてくれたのが「豊川海軍工廠(こうしょう)」(以下豊川工廠)のことです。豊川工廠は、当時、東洋一の規模で海軍の兵器を生産していた工場です。
この工廠が、8月7日米軍機の爆撃に遭い3,000人以上の人が亡くなったのです。そこで働く海軍軍人、軍属工員、徴用工の他に多くの「勤労動員」された学生達が亡くなりました。
そこでは、多くの女子挺身隊員や動員学徒も働いていました。母の通う学校の2年生以上(母は、1年生)の女学生もたくさん行き亡くなりました。
そこには母の7歳年上の叔母が、勤労動員で行っていました。爆撃の翌日に母は、祖父に連れられてその叔母を探しに行ったそうです。
(それから先は、少し言葉が詰まりながら)母が行ったときは、豊川工廠の中は沢山の山になった遺体があり、その遺体を次から次へに外へと運び出しているところでした。
母の叔母は、見つからずそのまま家に戻るとひょっこりとその叔母が姿を現したそうです。何でも叔母は、その日がたまたま休日で、工廠に行かず難を逃れていたのです。
私は、母にこの話を聞いたことで、広島と長崎の「原爆投下」の谷間の日に多くの犠牲者を出した「豊川海軍工廠爆撃」の話を知りました。
「B-29爆撃機」124機の爆撃を受け、30分間で壊滅した工廠には、今の中学生、幼い女生徒も多くいたことも知りいたたまれない気持ちになりました。
しぼり菜リズム
母は、女学校の1年生だったので2年生からの「豊川工廠」への学徒動員を免れ、自宅が焼失した「名古屋大空襲」にも疎開していたため遭いませんでした。
豊川工廠へ勤労動員で行っていた母の叔母も偶然、当日は休みで無事でした。運がよかったとしかいいようがありません。
もし学年が1つ上だったら、疎開しないでそのまま名古屋に残っていたら、母の叔母が休みでなかったら…。母や親族が戦争の「犠牲」になっていたかもしれません。
母の話を聞いて母は、案外、紙一重のところで戦禍を生き延びることが出来たのかと思いました。