『聖徳太子 日出づる処の天子』
サントリー美術館で催されている『聖徳太子 日出づる処の天子』とい】う特別展に行って来ました。
空いているかと平日の昼間に行ったにもかかわらず、一つの展示品に2、3人群がっているような具合で意外と人が多かったです。
「聖徳太子」結構、人気あるのかも。
聖徳太子は、山岸涼子の漫画『日出処の天子』で興味を持ったことがあり「日出づる処の天子」というタイトルに思わず惹かれて行ってしまいました。
今年が、聖徳太子(574~622年)の1400年遠忌(おんき・五十年忌、百年忌など、没後に長い期間を経て行われる年忌のこと)にあたり、太子ゆかりの寺院では法会や記念事業が行われているそうです。
催しの『聖徳太子 日出づる処の天子』というタイトルは、遣隋使派遣の際に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と記した国書を隋の皇帝に送ったとされるしたところからきています。
私にとって漫画の影響で聖徳太子は、謎多き幻の人物で、実存したのかどうかも危い人物。
そんなのもあり今回の催しで、聖徳太子が、実存したかどうか実存した証などあるのかとうかが知りたかったのです。
でも、展覧会の趣旨はどちらかというと太子が建立し太子信仰の中核を担う大阪の四天王寺が主催しているのでどう人々に信仰されたのか、どう親しまれてきたか「太子信仰のゆかり」の品々を紹介するものが主で、そういった内容ではありませんでした。
聖徳太子
聖徳太子は、日本史の教科書に載っている知らない人はいないという有名人で、昭和を生きた人ならばまず、1万円、5千円札の肖像画を思い浮かべるでしょう。
574年に産まれた皇子(用明天皇の息子)で厩戸の前で産まれたことから、「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」と名付けられ、「遣随使の派遣」や「冠位十二階」「十七条憲法の制定」など歴史に残る功績を残しました。
政治家として、叔母・推古天皇の摂政として活躍し国家の基礎を築いたといわれています。
また、仏教排斥派である物部氏との戦いに勝利し、「仏教」を広めたことから日本仏教の祖として最澄や親鸞、一遍といった各宗派の祖師からも敬愛されました。
このように太子は太子信仰として、裾野が広く庶民にも信奉されました。
これに一役買っているのが、今回の展示品でもある四天王寺を始めとする太子ゆかりの寺の品々です。
絵巻や2歳児から成年像までという様々な年代の太子像など伝説的なエピソードに特化したものがたくさんありました。
例えば「中国の高僧の生まれ変わり」とか「一度に10人の話を聞くことが出来た」など伝説的なエピソードを盛り込んだもの。
後世には、尾ひれがついて観音菩薩の化身になったり、お釈迦様ではないけれど2歳で東方を向いて合掌し「南無仏」と称えたと伝えられたものもあります。
この2歳像などかなり盛られていますが、IQの高い神童には違いなかったようです。
『聖徳太子絵伝』で興味を持ったのが、太子生誕に関するものです。
太子の母の前に現れた全身金色の僧侶のお告げのもと救世観音菩薩が、母の口から体内に入り懐妊。
その後、小豆ほどの仏陀の骨を握りしめて馬小屋の前で生まれたのが厩戸皇子といういうもので、「受胎告知」を受け馬小屋で生まれたキリストを彷彿とさせます。
これは、四天王寺など「太子の霊場」としての地位をより強固なものにするために後世に作られた物語で、このような伝説を描くことで「神格化」の手段としたようです。
絵伝の中で、ユニークだったのが、聖徳太子が馬に乗って富士を飛び越える様子を描いたもので、神聖な中にも親しみを覚えました。
『日出処の天子』の原画に会えた
今回予期せず出会えたのが、40年前に夢中で読んだ山岸涼子の漫画『日出処の天子』の原画です。
何故、この原画が展示されていたのかは
聖徳太子が「後世、どのように受け入れられ人々に愛されたか」というこの催しのテーマの1つとして、近年では、お札の肖像画として万人に親しまれたほか、歴史に興味がない層にも愛されたのはこの漫画の影響があったからです。
LGBTという言葉すらない時代、漫画が、太子ゆかりの法隆寺をも巻き込んだ「聖人である聖徳太子を同性愛者として描くなんてけしからん」みたいな世間をざわつかせるちょっとした騒動になり、これで聖徳太子にスポットライトが当たり親しみを持った人がいたからです。
漫画『日出処の天子』は、聖徳太子の青年期を中心にした物語です。
腐女子の友人に勧められたので、聖徳太子こと厩の皇子がとびきりの美少年で超人的に描かれて「同性愛者」として描かれています。
(この頃の少女漫画は、竹宮恵子、萩尾望都、青池保子など少年同士の同性愛を盛り込んだBL的要素があるものが流行っていたかな)
この漫画によって聖徳太子は、神秘的な厩の皇子のイメージを壊さないで欲しという願望もあり私の中ですっかり「架空の人物」になりました。
漫画そのものは、引越しで処分してしまったのでこんな形で『日出処の天子』に再び出会え思わぬ収穫に胸躍りました。
太聖徳子は、実在したか
「聖徳太子」の本名は「厩戸皇子」といい、聖徳太子という名前は生前の行ないを褒め称えておくる名で、数々の偉業があったからこそついた名前です。
「遣随使の派遣」「冠位十二階」「十七条憲法の制定」に関わったり、仏教を日本に広めたという偉業を行ったことは違いないと思います。
ただ絵伝、様々な年代の太子像の超人的な人物像は、信仰の対象として神格化するために後付けされたもので、この超人伝によって聖徳太子は実存しなかったのではないかと思わせたのも事実です。
私は、漫画によって架空の人物になってしまったけど展覧会で実在したという証拠みたいなものがありました。
「太子が着用した緋色の衣服の切れ端」や「七星剣(北斗七星が嵌め込まれている刀剣)」など太子が所持したと伝わる飛鳥時代の品々や太子真筆と伝える「四天王寺縁起」です。
(刀剣は、漫画の『日出処の天子』の1巻表紙の腰に吊るしている物?)
これらは、一応、太子のものと伝えられているので「火のない所に煙は立たぬ」で、実在はしたのだろうと思われます。
ただ、太子は実在した可能性は高いが後世に伝わる「聖徳太子」としての太子像などは、「架空」のもだと思います。
今回、感じたのは、鎌倉、室町、江戸時代と太子に関するエピソードが脈々と受け継がれてきたのは、実存するしないに関わらず太子が広く愛されてきたということです。
これからも太子への篤い信仰はなくなることがなく、永遠に受け継がれいくのだと思いました。
聖徳太子は、用明天皇の第二皇子という天皇家の直系なので、自分の地位を守る「神道」を普及させるのが常ですが、日本にとって新興宗教的な異国の仏教を取り入れたのは先駆的で損得を超えたものだったと思いました。
太子の書である「三経義疏」には「慈悲の心で人々に幸せを与え、苦しみを除くこと」と書かれています。
仏教の根本精神を実践するため「四箇院」宗教道場、病院、福祉・介護施設、薬局を設け、「片岡山伝説」から分かるように、太子は身分に関係なく慈悲深い人でもありました。
そんなところが、人々に受け入れられ超人的なエピソードとともに愛されてきたのかと思いました。
国宝も展示
太子が建立した四天王寺は、幾度も戦禍や火災で伽藍が失われましたが、「金銅威奈大村骨蔵器(骨壺)」「四天王寺縁起」「扇面(せんめん)法華経冊子」など「国宝」も残っていて今回、展示されていました。(展示期間外のものもあり)
各地から集めた太子に関する貴重な作品、文献資料などもあり見どころがたくさんありました。
40年前の聖徳太子を題材にした漫画の原画もあり、思ったよりの堅苦しくなくバラエティーに富んだ展示会でした。
しぼり菜リズム(まとめ)
サントリー美術館で催されている『聖徳太子 日出づる処の天子』を見ました。
聖徳太子(厩戸皇子)は、「遣随使の派遣」や「冠位十二階」「十七条憲法の制定」など歴史に残る功績を残し、仏教をの日本に広めました。
展覧会の趣旨は、太子が、最澄や親鸞、一遍などの宗教界の大物をはじめ人々にどう信仰されたのか、どう親しまれてきたかというもので、太子建立の四天王寺を中心に「太子信仰のゆかり」の品々を紹介するものでした。
『聖徳太子絵伝』や様々な年代の太子像は、四天王寺など「太子の霊場」としての地位をより強固なものにするために超人的に描かれていました。
このように後世に作られた伝説的な物語で「神格化」された太子像は、太子信仰の礎として現代まで脈々と受け継がれてきました。
聖徳太子は、実存したかは、太子が所持したと伝わる飛鳥時代の品々や太子真筆と伝える「四天王寺縁起」で実存したらしいことが分かりました。
ただ太子は、実存したか否かに関わらず、慈悲深く徳に篤い人物だったようでそんな人柄も含めて超人伝説とともに「太子信仰」として人々の間で存在し続けています。
展覧会は、四天王寺の国宝や各地から集めた太子に関する貴重な作品、文献資料のほか山岸涼子の漫画『日出処の天子』の原画もありバラエティーに富んだものでした。
■『聖徳太子 日出づる処の天子』
- サントリー美術館
- 2021.11.16(火)~2022.01.09(日)