小説「レ・ミゼラブル」
ビクトリアユゴー小説『レ・ミゼラブル』を読んで、ドラマや映画では分からなかったジャン・バルジャンの改心とジャヴェルの死の謎について書きましたが今回は、その他の感想を書きました。
ユーゴー小説『レ・ミゼラブル』で、二つの疑問を解く。ジャン・バルジャンの改心とジャヴェルの死の謎
アマゾンプライムビデオ「Theミュージカル映画」傑作2選その2『レ・ミゼラブル』
ジャン・ヴァルジャンの苦悩や葛藤
ジャン・ヴァルジャンの「苦悩」や「心の葛藤」は、ときには静謐だけど壮絶で読み応えがあります。
特にジャン・ヴァルジャンの身代わりになった無実の罪の男を助けるために今まで築いた市長や起業家という地位や名誉を捨て自らを名乗り出るまでの心の葛藤を描いたところやマリウスにコゼットを取られてしまうという嫉妬を打ち消して、マリウスを助けマリウスに嫁がせるまでに至った描写は秀逸です。
自分の身代わりの男を助けるために
自分の身代わりに投獄されそうな男がいると知らされ、「自ら「ジャン・ヴァルジャン」だと名乗り出なければ自分は、罪に問われることはない」と一瞬でも自己保身に走ることがありました。
ジャン・ヴァルジャンは、ミリエル司教に一度、助けてもらったからといって完全に悪の心をくじき、善の心だけで生きられた訳ではなかったのです。
ミリエル司教から受け継いだ「良き人(正しき人)」としての行動を取るまでに当然のことながら迷いや葛藤があったのです。
しかし、そうした「悪の心」に傾く自分を恥じて、無実の囚人を救うために自身の正体を裁判所で公表する決意します。
そこのたどり着くまでの「ああでもない、こうでもない」と逡巡するくだりはとても人間的で、こういった葛藤があったからこそ後にジャヴェルの命を救い瀕死のマリウスを救ったのではないでしょうか。
コゼットを失いたくない
ジャン・ヴァルジャンは、マリウスにコゼットを取られてしまうという嫉妬を克服して、自分の代わりにコゼットを守ってくれる存在としてマリウスを認めてコゼットを手放す決心をします。
その境地に至るまでのジャン・ヴァルジャンの葛藤も壮絶です。
心も体も成長して「自我」や恋に目覚めていくコゼットに対して、ジャン・ヴァルジャンは、愛する者を失う不安や喪失にさいなまれました、
ジャン・ヴァルジャンは、コゼットによって、人並みの愛や慈しみを知り、彼が強く寛容な人へと変われたのも守るべきコゼットがいたからです。
ジャン・バルジャンにとってコゼットは「一筋の光」で、自分の人生においてコゼットだけは失いたくなかったと思います。
そんなコゼットをマリウスに嫁がせて、さらに「良心」のためにマリウスに徒刑囚であった過去までも告白してしまいます。
それによって、コゼットは、ジャン・バルジャンからますます遠ざかってしまい以降、生きる力をなくして衰弱していきます。
そこまで身を削って、正直に生きなくてもと思ってしまいます。
まあ、道に迷いながらも決して、保身に走らず「正しき人」となるように茨の道に入る覚悟が出来たのは、次から次へと襲う試練や葛藤を乗り越えた人生を歩んできたからからで、それによってジャン・ヴァルジャンは「高潔な精神」の持ち主になっていったのでしょう。
それにしても、偶然のテルディエの悪だくみによって、死ぬ間際には誤解も解けてジャン・ヴァルジャンの本質をマリウスが知り得ることが出来てジャン・ヴァルジャンの人生も報われたと思いました。
小悪人テルディエの役割って、最後の最後にジャン・ヴァルジャンをホローすることだったなんて。
結果、テルディエによって、ミリエル司教からジャン・ヴァルジャンに受け継がれた「正しき人」という行動規範が、マリウスへと受け継がれたのですよね。
随所に登場するテルディエって、「ヒール役」として重要人物だったのだなあと改めて思いました。
ガヴローシュ、エポニーヌ
小説のテルディエ夫妻の息子のガヴローシュと娘エポニーヌについて感じたことです。
まず、親のネグレストで、ストリートチルドレンのようになった「ガヴローシュ」は、一個人としてではなく貧困に苦しむ 19 世紀フランス社会の最下層の民衆の象徴のように描かれていたと思いました。
ガヴローシュは、「レ・ミゼラブル」の意味の「惨めな人々」には違いないのだけど、「生きていくすべ」を身に着けて自立して生きていた李や弱い者には手を差し伸べたり、歌を歌って愉快に暮らしていくという高い精神をも持った子どもで、決して惨めな子どもではなかったと思います。
ただ、助けた幼い兄弟が、実の弟達だと知らずに亡くなったことと父親であるテルディエの悪事を手伝ったにも関わらず何の感謝もされなかったことは可哀そうでならなかったです。
本当は、父親に褒められたかった。認められたかったのだと思います。
映画やドラマでは、「エポニーヌ」の献身的で報われない片思いに涙しましたが小説でも同じです。
ユゴーは、読者が喜ぶ心得を知っていて、エポニーヌの悲恋のエピソードを入れたのだと思いました。
マリユスが愛しているのはコゼットだと知っていながらマリユスのために、体を張って悪漢を追い払い、マリウスの盾になり命を落とす間際もコゼットからの手紙をマリユスに渡すなどマリウスの幸せを願う気持ちは、弟ガヴローシュと同じでエポニーヌ自身も高潔な精神を持っていたからだと思いました。
それにしてもマリユスに恋心を抱くようになって、上層に不満を下層の人達が使う汚い言葉である「隠語」が使えなくなってしまったエポニーヌの「乙女心」は、本当にいじましいです。
『レ・ミゼラブル』のテーマ
『レ・ミゼラブル』は、「愛とは何か」「正義とは何か」「人を赦すこととは」人類のそんな普遍的なことがテーマになっていると思います。
「人が、幸せになるには」どう振舞っていったらいいのかということが最大のテーマで、そのためには「正しき道」を選んで生きることが示されています。
この「正しき道」って何かです。
小説では、ミリエル司教の愛の実践であり、ジャン・ヴァルジャンの愛の実戦として描かれています。
ミリエル司教は、ジャン・ヴァルジャンを赦し慈愛や施しを与え、ミリエル司教から受けた慈愛をジャン・ヴァルジャンが、ファンティ―ヌとその娘のコゼットを救い出し、マリユスを救い、ジャヴェルの良心を救うという行動で返していきます。
(ただし、ジャヴェルの場合は、ジャン・ヴァルジャンの保身のない愛を感じ、「法の正義」よりも「海よりも空よりも深い人の心」があり、それが人を幸せにするもだということを知るも受け入れることが出来ずに死を選びます。)
そして、「愛の実践」は、そこで途切れることがなくジャン・ヴァルジャンの愛を受けた「未来」の象徴であるコゼットやマリウスに引き継がれていきます。
ジャン・ヴァルジャンが、愛する人や人々を助けるために自らを犠牲し人を幸せにしていったことで「愛」が未来永劫に引き継がれていったこと、「人の愛や愛の実践こそ人を幸せにする」ということが『レ・ミゼラブル』のメインテーマなのだと思いました。