テレビで、大道芸人「ギリヤーク尼ヶ崎」のドキュメンタリーを見ました。
「伝説の大道芸人」と呼ばれこの道50年。国内外の路上でパフォーマンスを続け、投げ銭だけで生活してきた方です。
御年88歳、都営住宅に弟さんと二人暮らし。脊柱菅狭窄症、パーキンソン病でこの弟さんに「介護」され生活しています。老々介護というやつですね。
白髪の長髪は、ぼさぼさ。歩くのもやっとで、外出は車椅子です。おまけに物忘れまで酷いのです。
この老人が現役のパフォーマー?というくらいの日常生活もままならないのです。
そんなギリヤーク尼ヶ崎がひとたび、舞台(路上ですが)に立つと別人のように情感たっぷりと踊るのです。とはいえ往年のよう踊りとは違い、車椅子に乗ってのパフォーマンスです。
往年の踊りをユーチューブで見ると激しい体の動きに加え、表情も情感溢れて魅了されます。
上手いのか下手なのか踊り自体の技術的なことは分かりませんが、こういうものを超えて何か心を鷲掴みにされます。
自分のホームともいえる新宿での街頭公演では、当日の朝は自分で立つことすら出来なくなり、両脚ともに炎症でパンパンの状態でした。
痛み止めの湿布を貼りコルセットを付けての満身創痍の状態。手の震えも収まらずこれで、本当に踊れるのかという状態でした。
でも「じょんがら一代」や「念仏じょんがら」といった代表作に魅了された人も多く、新宿公演では、2000人余りの客がギリヤーク尼ヶ崎を見に集まって来ました。
そんな期待の中で、本当に踊ることが出来るのかとハラハラしていました。
渾身のパフォーマンス
ギリヤーク尼ヶ崎を見るために2000人が集まった新宿での路上公演は、渾身のパフォーマンスで見事に演じ切りました。
観客の拍手に芸人魂が目覚めたのか、それに呼応するかのように全身全霊で演目を表現していました。とはいえ、黒子の紀さんに車椅子を押されてのパフォーマンスです。
観客の前で踊るギリヤーク尼ヶ崎は先程までの歩くのもやっとの老人の姿はなく、人間の体に魂が入るように動き出します。
そして、車椅子から立ち上がって十八番の片足立ちや階段を駆け上がる動きを見せました。頭からバケツの水まで、かぶったのですよ。
日常生活があれだけ大変なのに、体がボロボロなのにどうして、片足で立つことが出来たのか陸橋の階段を駆け上がることが出来たのか。足の痺れはどうなってしまったのか。
その答えのヒントは、「踊りがあるから、自分が生きていると自覚出来るんです」と本人がいうように「芸」が生きることで、自分の一部だからなのでしょうか。
また、踊ることが好きで好きで仕方がありません。
だから踊ることへの信念や意思が、肉体的な限界を超え体現してしまうのです。
どんなに体がボロボロでも「魂」はエネルギーとなって突き動かすのです。
自宅で介護を受けているときと踊っているときと同じ人物なのかと思うほど表情も体の動きも生き生きとしてみなぎっています。
「母さん 、しっかり踊っているよ~」と絶叫し、一心不乱になり切って踊っていますが八の字の眉毛の仙人のような容貌もあり表現が自然発生的なのです。
痛々しさなど帳消しにして不思議な雰囲気も醸すところは、根っからのパフォーマーなのかもしれません。
生きる力をもらう
よぼよぼの老人に芸人としてのスイッチが入ると同時に魂の表現者になっています。
88歳になっても、体は病に侵されていても表現に対してあれだけの意欲を持てるというのは、並大抵ではありません。
突き動かされる何かがあるというのは、本当に羨ましいです。
生きるとは、こういうことなのか、生きることの本当の意味をギリヤーク尼ヶ崎のパフォーマンスを見ていると教えられます。
そして、何よりもその踊りから「生きる力」をもらうことが出来るのです。
しぼり菜リズム
本人にとって、これもある意味「マインドフルネス」なのではないかと思います。
簡単で、「心」が整う。【マインドワンダリング】から心を取り戻すために私がやっていること
踊っている心は、正に「今ここ」にあり意識はそこ以外のどこにもなく、究極を見据えています。
渾身のパフォーマンスは、この人、今、この一瞬にかけて生きている!のだと思います。
これを「メンタル」のカテゴリーにしたのは、やはりギリヤーク尼ヶ崎のパフォーマンスから生きる意味を教えられ、そこから生きる力をもらうからです。
年齢や老いを乗り越える励みにもなります。