「幕末土佐の天才絵師 絵金」(サントリー美術館)に行きました。
絵金さん
「絵金さん」として親しまれている江戸時代の土佐の絵師・金蔵(きんぞう・1812~76年)を初めて知りましたが、朝日新聞の夕刊に紹介されていたので興味を持ち見に行きました。
掛軸や絵巻も展示されていたが、多くは二つ折りの屏風絵で目に飛び込んでくる絵は、従来の日本画ではあまり見ないようなド派手な極彩色の色使いのものが多く強烈な印象を残し、まず最初の入り口の「フォトスポット」の絵「伊達競阿国戯場 累(だてくらべおくにかぶき かさね)」の鮮やかな赤色から目を奪われ、「まあ、奇麗!」と思わず呟いてしまいました。
会場内の本物も劣化もなく綺麗で、この色の状態が、幕末を経て保たれていたのは凄いと思いました。
この鮮やかな色を出すのに使ったのが伊藤若冲「動植綵絵」にも使われた岩絵の具で、岩絵の具は、鉱物を砕いた顔料で非常に耐久性が高く変色しにくいという性質あるものです。
ただ岩絵の具は、天然の顔料だったので高価なものだと考えられますが、実家が太い若冲と違い藩のお抱え絵師からの失脚して町絵師になった絵金にそんな高価な絵の具をふんだんに使えるとも思えないです。
でも絵金は、赤岡(現在の高知県香南市)の商家の注文に応えて生活の糧となる絵を描いていたので、豪商の旦那衆がパトロンになっており意外と画材の調達には苦労していなかったかもしれません。
ここで思うのは、絵金の支援者や絵の依頼者は、芝居小屋や夏祭りで飾られる絵馬提灯や屏風に描く絵を発注していて、それに応えるように大衆が喜ぶデフォルメされた顔の表情や血しぶき、情念が渦巻く歌舞伎や浄瑠璃の名場面を描き、それらの芝居絵が絵金の代名詞になったこと考えると御用絵師から転落して市井の絵師として「生活のために絵を描いた」ことは、絵金の画業にとって不幸中の幸いとなったといってもいいでしょう。
(狩野派に属して御用絵師のままだったら、芝居絵の猥雑、土俗的で血みどろの絵は生まれなかった)

「花衣いろは縁起 鷲の段」
で、話を少し戻すと絵金の絵は、下地にも膠(にかわ)を重ね塗りもしているので顔料の定着がより強固になり、こうした丁寧な工程により色褪せや剥がれが抑えられ、今でも鮮やかな色彩で見ることが出来るのです。
会場内は、「花衣いろは縁起 鷲の段」のように全体的に鮮やかな赤と補色を巧みに使う配色の妙もありこの絵のように劇的な印象を残すものが多かったです。
絵金さんとともに
第2章では、現在も絵金の芝居絵屏風を夏祭りに飾る風習が残る高知の神社の絵馬台を再現して、実際の飾られているときの様子を再現するため照明が時間によって昼、夕方、蝋燭のあかりをイメージした明るさに変化する仕掛けになっています。
代表的な歌舞伎や浄瑠璃のストーリーを極彩色で絵画化した芝居絵屏風は、今なお夏祭りの間に神社や商店街の軒下に飾られ、提灯や蝋燭の灯りで浮かび上がる画面は、地元の人や観光客の目を楽しませてくれます。
絵金の芝居絵は、祭りのために描かれ多くは、高知県香南市赤岡町で毎年夏に開催される「絵金祭り」で展示されるために制作されました。
芝居絵を見ると異なる時間の出来事や人物を芝居の盛り上がる場面の細部まで一枚に描き込んでいるからごった煮のような印象だけど、芝居絵は、祭りの夜は提灯や蝋燭の光に照らされた絵に顔を近づけてじっくりと見るので、ケレンミのある原色や赤や緑といった強烈な色彩もきっと夜間の薄暗い中で人目を引き物語の世界に引き込むための工夫なのだと思います。
最近、円山応挙の写生的で遠近感のある絵を見たばかりなので、絵金の絵は、平面的な構図で遠近感を強調したり無視したような絵は一見奇異に感じました。
がこれは、狩野派の画法を学んだ絵金があえて庶民に受け入れやすいように物語のインパクトを優先したからで、落ち着いた色調と丁寧な筆致、整った画面全体のバランスの絵巻や掛け軸、「東山桜荘子 佐倉宗吾子別れ」のような秀逸な登場人物の表情や仕草を見ると本来は、高い技術力を持った絵師だったことが伺えます。
特異な激しい表現の芝居絵もよく見ると習得した技巧を入れつつも登場人物の表情や動き、着物の柄、髪の毛の一本一本に至るまで細部まで緻密に描写されているばかりでなく、背景の風景や小道具も案外、手を抜かずに描いていて絵金は、単なる奇才ではなくやはり「天才絵師!」
こういう芝居絵屏風が、須留田八幡宮神祭と土佐赤岡絵金祭りで商店街の軒下に飾られるのは街角美術館のようで結構、凄いこと
(毎年、いつもの街をそぞろ歩きをしながら絵金さんの絵を見れる地元の方々が羨ましい!)
芝居絵屏風や絵馬提灯が地域に深く根ざした祭りの道具だから保管も赤岡町などの地区や地域の神社が行っていて、警備の問題も含めて温度や湿度の環境が整った美術館や博物館、寺院の収蔵庫ではないような場所でよくあれだけ奇麗な状態を保ってきたと感心します。
きっと「絵金さん」の絵は、代々、「地域の宝」として氏子(うじこ)や地域の住民の熱意と愛情によって守り継がれてきたからでしょうか
石川五右衛門の物語

「釜淵双級巴第12」五右衛門が盗みに入った家で息子・五郎市と偶然再会
このほか面白かったのが石川五右衛門の悲しき運命を絵馬提灯に描いた一代記「釜淵双級巴 (かまがふちふたつどもえ)」です。
屏風絵は、物語の流れが分かるように一つの画面に凝縮して描き込んでいるもの多いが、屏風より小さい絵馬提灯では場面場面を26枚の連作でそれぞれ描いています。
絵馬ごとのキャプションにストーリーが記されているので、読みながら見ると話の流れが分かり楽しめます。
天下の大泥棒・石川五右衛門がいずれ釜茹での刑になることは分かっていたが、息子との絡みは知らなかったので息子との再会からの流れで幼い息子も一緒に釜茹でになったことに絵金の意図したとおりグッるものがありました。
浄瑠璃では、親子一緒に処刑されることになったところで終わるが絵金は、その後の遺体を処理する様子も描いていて、茹で上がった茶色い亡骸(釜から出される五右衛門と釜から出されてうつ伏せ状態の五郎市)や後始末をする刑場の人達(穢多、非人?)も淡々と描かれていたのがショッキングでした。
そして、「土佐震災図絵」は、1854年に発生した「安政の大地震」つまり「南海トラフ地震」の災害そのものや被災する人々の生々しい様子などを描いていて、土佐国内の被災状況が細かく描写された膨大な数のスケッチは、防災史料として資料的価値の高いものだと思います。
しぼり菜リズム(まとめ)

デザインの祭典「wall clok」SHOKKI (時間を忘れるための時計)
(六本木ミッドタウンのガレリア地下1階にあった作品。こちらも絵金の芝居絵のようにストリート美術館(通路)のように展示されていました)
「幕末土佐の天才絵師 絵金」(サントリー美術館)に行きました。
「絵金さん」として親しまれている江戸時代の土佐の絵師・金蔵の屏風絵は、目ド派手な極彩色の色使いのものが多く強烈な印象を残します。
芝居小屋や夏祭りで飾られる絵馬提灯や屏風に芝大衆が喜ぶデフォルメされた顔の表情や血しぶき、情念が渦巻く歌舞伎や浄瑠璃の名場面を描き、それらの芝居絵が絵金の代名詞になりました。
芝居絵のよう狩野派で学んだ技術を生かしつつ大胆に大衆向けのエンターテインメントとして振り切ったことは、絵金の唯一無二の様式を確立することになり御用絵師から町絵師に転落したけれど結果、「絵金さん」の絵として後世まで引き継がれていったので大成功だったと思います。
■「幕末土佐の天才絵師 絵金」
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- サントリー美術館
- 9月10日(水)~11月3日(月)







