地蔵堂
善福寺川に架かる原寺分橋から南へ地蔵坂の交差点までの通称「地蔵坂」の途中に地蔵堂(西荻窪北4-37)がありました。
地蔵堂には、地蔵菩薩や庚申塔、馬頭観音などが祀られていましたがそれらは観泉寺(今川2-16-1)に移されているというので見に行きました。

観泉寺の門前にある立ち退きや道路拡張で周辺の街にあった石造物が集められた場所があります。

祀られ石仏群は、不詳のものも含めると20基以上になります。

その中に門前の西側の石仏群の中に「地蔵坂」から移転したものがあります。
北向観音と馬頭観音、庚申塔です。
北向観音

入口から入って正面右の堂宇にあるのが「北向観音」で、西荻北4-37の地蔵坂から昭和53年(1978年)に移されたものです。

舟形を呈した享保十七年(1732年)銘の地蔵菩薩は、北を向いていたところから「北向地蔵」とも呼ばれていたそうです。
この地蔵菩薩があったので、江戸時代中期以降に坂の名前が「地蔵坂」名付けられたと考えられています。

石がすり減り顔が分かりにくいです。

観音様のまわりには、千羽鶴が何房も掛かっていて、ドライフラワーだけど花も供えられています。
馬頭観音、庚申塔

北向観音のほかに地蔵坂の堂宇にあったのが「馬頭観音」や「庚申塔」で正面から入って右側にに6基あります。
(彫られた字で見にくいものは、「杉並区史探訪」森泰樹著を参考にしました)
左

左1
左側の3基のうち一番左の舟形の江戸向地蔵は、
銘文「為二世安楽也」とあり享保十七年(1732年)十五日の建立となります。

左2
中央の駒型庚申塔(銘文 奉納庚申供養塔)は、正徳六年(1716年)二月の造立で青面金剛像と日月三猿が彫られています。
庚申塔は、庚申様を信仰する人々が供養のために建てた石塔や像のことで、道の交差する辻や寺の庭などに建てられました。

左3
右側は、笠付角柱型の庚申塔で、貞享二年(1685年)十月十四日の造立、デザインは、青面金剛像、日月三猿の図柄です。

左3
この青面金剛像は、三つの顔と六つの腕を持つ一面六臂(いちめんろっぴ)の変化観音です。
それぞれの1対の手には、法輪(チャクラ)と蓮華(れんげ)、弓と矢、宝珠(ほうじゅ)と水瓶(すいびょう)を持っています。
仏教では、六本の腕は地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道の六種の世界(六道)を表しています。
右

右側の3基です。

右1
一番左は、隅丸方型の銘文は「馬頭観世音菩薩 如是畜生死馬為菩薩也」(馬頭観音)で、文政七年(1824年)十月建立です。
「多摩郡遅野井村」の銘があり、「遅野井村(おそのいむら)」は、上井草村の別称で地蔵坂の地蔵堂があった場所です。
「馬頭観音」は、六観音の一つで、頭の上に馬の頭をいただいていることから馬の守護神として昔から広く信仰され馬とともに生活する当時の人々が馬の無病息災を祈り、馬と歩む道中の安全を祈り、死んだ馬の冥福を祈るという身近な馬の存在と信仰がマッチして馬頭観音が多く造られました。

また、怒りの相をしていて怒りが強ければ強いほど馬頭観音の人を救う力が大きく、馬は大食であることから人々の悩みや苦しみを食べ尽くすと言われています。

馬頭観音の側面には「東江戸」

「西ふちう」と彫られており道標の役目をしていました。
(西府中)
この馬頭観音は、東多摩郡井荻村、豊島郡石神井村、北多摩郡吉祥寺村の3郡の境に立てられていたため「3郡境の馬頭様」と呼ばれていました。

右2
中央の見笠付角柱型の庚申塔は宝永二年(1705年)十二月六日の造立です。
青面金剛像、日月三猿の図柄で、「御地頭御武運長久祈 現當二世安楽所」と書かれています。
「青面金剛像」を調べると
「鬼病を流行させる鬼神で身は青色で四臂または二臂・六臂に造り、目は赤くて三眼、頭髪は火のように逆立ち身には蛇をまとい足下には二匹の鬼を踏みつけた怒りの形相」
とあり三眼の憤怒の相で…ようするに怖い顔をしています。

右2,3
右側の3基のうち右端の一番小さいのは、駒型の庚申塔です。

右の3
延享二年(1745年)四月八日の建立で、一面六臂の青面金剛像、日月三猿が描かれています。
「武刕多摩郡遅野井村」「奉建立庚申橋供養佛」の銘があります。
とここまでが、西荻窪北4丁目の地蔵坂の堂宇から移転したものです。
しぼり菜リズム(まとめ)
「地蔵坂」の地蔵堂(西荻窪北4-37)があった北向観音、庚申塔、馬頭観音が観泉寺(今川2-16-1)に移されているというので見に行きました。
門前の西側の一画、正面右の堂宇にあるのが「北向観音」で、この地蔵菩薩があったので、江戸時代中期以降に坂の名前が「地蔵坂」名付けられたと考えられています。
北向観音のほかに地蔵坂の堂宇にあったのが「馬頭観音」や「庚申塔」で正面から入って右側にに6基あります。