の続きです。

シダレモミジ 11月撮影
別な日に行ったら法要か何かあったみたいで人が多かったです。

鐘楼 7月撮影
平成5年(1989年)に再建された鐘楼堂です。
鐘楼は昭和49年(1974年)に広島「平和の鐘」の作者でもある人間国宝香取正彦氏によって作られたものです。

鐘楼 7月撮影
鐘楼は、口径85㎝、高さ160㎝、重さ1,080㎏あります。
旧鐘は、安永4年(1775年)に金六拾弐両(1両 = 10万円で計算すると、 62両 x 10万円 = 620万円くらい?)という大金で鋳造され170年余り朝夕のときを告げ村民に親しまれてきましたが、太平洋戦争の金属資源供出に応召し姿を消したとのことです。
今年の紅葉は、遅く11月下旬でも部分的に色づいている程度でした。
12月には、紅葉のライトアップがあります。

本堂の前に安置されている高さ5mほどの宝塔です。
『杉並区史探訪』(森泰樹著 杉並郷土史会ほか)よると文化2年(1805年)に建立されたが50余年後に再建されていて、安政2年の大地震で倒壊したのではないかとのとで、関東大震災のときにも倒れたそうです。

12月撮影

庫裡 11月撮影
本堂は、明和元年(1764年)、庫裡は、宝暦13年(1763年)に建てられたたもので杉並区内最古の木造建築で本堂は、昭和57年(1982年)に再建されています。

庫裡 7月撮影
庫裡が建てられたのは、火災により寺が全焼してからで本堂もすぐに再建されたのは、領主今川氏の菩提寺で寺と檀家が裕福だったからで、火災で一夜乞食になるような保険制度のなかった江戸時代では大変珍しかったようです。

7月撮影
参道から本堂へ向かう左手に庭園がありますが、中には入れません。
木がある場所の苔庭が美しいですね。
この日は、境内の造園の作業をしていました。

7月撮影
池泉鑑賞式庭園は、芝生と板石が新らしく現代に入り改修されたもので2段の滝もあり池には鯉が泳いでいます。

7月撮影
庭園の設計は、上井草の屋敷林所有者で造園家の西山雅俊氏で以前、主人がこの庭で本人から聞いた話では、庭全体が見渡せるように植栽は、低く抑えられているとのことでした。
春は奥の丸く刈り込まれたツツジに花が咲き、秋のモミジのライトアップと四季折々の表情を見せてくれるのでそれらを狙って訪れるもいいです。

本堂
江戸時代には「御朱印寺」だった観泉寺は当時、大変な権威を有していて住職は、領主の屋敷、役所、代官所、名主の役宅まで公用には駕籠の乗りつけが許されていたそうです。
また、檀家数は少ないながら年貢、課役は免除されたので経済的には恵まれ、明治維新の頃には田畑山林を有する大地主になっていました。
今川家は、領主の上、周辺の4か所の村を支配し今川所領支配の中心として観泉寺境内で年貢の取り立てや裁判も行っていたということです。

観泉寺幼稚園
観泉寺が経営する観泉寺幼稚園が、お寺の北側にあり園庭に並木があります。

観泉寺幼稚園
この並木は、かつて街道があった名残りで並木道だったのですね。
しぼり菜リズム(まとめ)

本堂 11月撮影
杉並区今川のお寺宝珠山曹洞宗 宝珠山観泉寺(観泉寺)は、戦国時代の名門今川氏累代の墓がある寺として広く知られ、鉄叟雄鷟(てつそうゆうさく)大和尚により開祖され、観音寺と称しました。
今川13代直房(11代は、今川義元)iは、将軍家光の命を受けて京に上り、東照大権現の宮号宣下の使者を勤めその功により井草村など3か村500石の加増を受け、それを機に観泉寺を菩提寺とし今川家は、幕府高家として明治時代まで子孫代々続きました。
山門をくぐると大木が多い境内は、重厚な本堂に池泉鑑賞式庭園、鐘楼があり、掃き清められ禅寺らしい清楚な雰囲気に包まれています。
■宝珠山観泉寺
東京都杉並区今川2丁目16−1
<参考文献>
-
- 杉並区HP
- 観泉寺HP
- 『杉並区史探訪』森泰樹著 杉並郷土史会
- 『杉並歴史探訪』森泰樹著ほか
- 『総集版 荻窪の記憶』荻窪地域区民センター協議会