杉並区今川のお寺宝珠山「観泉寺」が好きで、よく訪ねます。
その観泉寺について、書きました。

7月撮影
観泉寺のアクセスは、JR西荻窪駅からも西武新宿線上井草駅からも歩けば行けないことはないが、荻窪駅からバスで行くとお寺の近くのバス停「杉並高校前」まで行くので行きやすいです。
今川家

参道の入口にある「曹洞宗 宝珠山観泉寺」と彫った大きな自然石の道標がありその横にある東京都教育委員会説明板に書かれていたのは
「観泉寺の本尊は釈迦如来で、戦国時代の名門今川氏ゆかりの寺として広く知られ寺伝によれば、慶長2年(1597年)、今の下井草2丁目付近に鉄叟雄鷟(てつそうゆうさく)大和尚により開祖され、観音寺と称しました。
正保2年(1645年)、今川13代直房は、将軍家光の命を受けて京に上り、東照大権現の宮号宣下の使者を勤めその功により井草村など3か村500石の加増を受け、それを機に当寺を菩提寺とし、現在地に移して寺名を観泉寺と改めました。」

7月撮影
とあるように今川12代氏真公(うじざね)の孫直房は万昌院(新宿区)にあった祖父今川氏真と母(吉良義安の娘)の墓を観泉寺に移転し、今川氏真を観泉寺の開基としました。
観泉寺に眠る開基の今川氏真の父は、「桶狭間の戦い」で敗れた今川義元で、氏真は、義元亡き後家督を継ぎますが、領国であった駿河や遠江は北条氏、武田氏、徳川家康が支配し大名としての地位は失ったが妻の実家である北条家を頼った後は、家康の庇護下に入り文化人として多くの和歌を詠んで氏真の百首和歌や短冊類がお寺に保存されています。
「うき雲に嶺を残してほのほのと 夕にしつむ遠近の空」(氏真)
今川家は、徳川幕府が成立後は、儀式や典礼に関わる幕府高家として明治時代まで子孫代々続きました。
戦国の世、駿河で名を馳せた今川氏は、戦国大名として滅んだ歴史の敗者のイメージが強いですが、元々、室町将軍家足利氏の血筋にあたる武門の家で足利将軍家を武で支える一方で、文化を庇護しとりわけ歌を嗜む名家であったといいます。

7月撮影
そういう家柄なので結果として子孫にも公家文化の高い能力が受け継がれ氏真の子孫達が江戸幕府の朝廷や公家との交渉役として高家に抜擢されこのような立派なお寺を建てる事が出来たのでしょう

お寺は、道路沿いにクリーム色の塀で囲まれていて、辺りは、「今川」という町名です。
これは、観泉寺の住所である「今川」は、この地が今川家の知行地(今川氏は旗本なので知行地)だったことにちなんでいます。
観泉寺
参道の奥に樹木が茂ったお寺の山門が見えます。

7月撮影

11月撮影
平成5年(1989年)に再建された山門です。

11月撮影
1790年以前に建てられ山門は、銅板葺きから瓦屋根になったけど今川家の菩提寺に相応しい風格を備えています。

7月撮影
7月、樫、椎、ソロ、イチョウ、ヒノキ、ケヤキの大木が緑の蔭を落しています。

山門手前右側にある「禁葷酒(きんくんしゅ)」の石柱型供養碑があり天明4年(1784年)に建てられたものです。
禁葷酒とは、なまぐさものと酒を禁じることを意味し禅宗の寺では、強い香りの野菜である「葷(くん)」と酒を「葷酒(くんしゅ)」と呼び、修行の妨げとなるため、寺の境内に持ち込むことを禁ずるという標語です。
この種の石柱としては杉並区最古のものです。

本堂 11月撮影
山門をくぐると石畳を敷いた参道の正面に屋根瓦の流れが美しい重厚な本堂が見えます。

本堂 11月撮影
広い敷地に見合う大きさの立派な本堂

このお寺は、観光を目的とするお寺ではないので、拝観料も取らないし売店もない
いつ行っても人ほとんどいない静かなお寺です。

7月撮影
境内は、禅寺らしい清楚な雰囲気に包まれています。

境内は、行く度に庭師が手入れをしていて、いつも掃き清められて気持ちがいいです。
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