相国寺展
「相国寺展 金閣・銀閣 鳳凰がみつめた美の歴史」(東京藝術大学美術館)に行きました。
前期と後期で半分近く入れ替え制なので前期、後期両方に行き前期と後期で作品や雰囲気がガラッと変わるのが面白かったです。
前期行ったときは、東京芸大の入学式の日で新入生やその父母で入口の辺りが混んでいたけど入場もほぼ待つことなく出来て館内もスムースに見れました。
後期の方が、入館者が多く前期より作品の前に列が出来てなかなか進まず1つ1つの作品をじっくり見るのが大変でした。
この展覧会は、比較的年配の方が多かったです。
京都の相国寺(しょうこくじ)のことは知らなくても京都の観光名所である金閣寺(鹿苑寺)、銀閣寺(慈照寺)を知らない人はいないでしょう
実は、この金閣、銀閣は、相国寺の山外塔頭(さんがいたっちゅう)で、大本山より有名になったけど相国寺は、京都五山の第二位に列せられ、足利将軍家ゆかりの禅寺という由緒ある各式高い寺院なのです。
(私も金閣、銀閣寺には行ったけど相国寺は多分、行っていないor行っていても記憶にないです…)
相国寺は、創建から640年、多くの芸術家を育て国宝、重要文化財級の名作を生み出してきましたが僧侶が、水墨画に漢詩を書する「詩画軸」の流行を先導したり、中国絵画を咀嚼しながら新たな日本の絵画を生み出したり、銀閣で最古の特別展・展覧会が開催されたりと実は美術の部門で時代を担ってきた寺院だったことが分かりました。
今回は、相国寺にまつわる美術品を所蔵する承天閣美術館開館40周年を記念する展覧会となりますが、日本独自の水墨画を確立した画聖・雪舟や相国寺に縁が深い伊藤若冲を中心に感想を書いてみました。
雪舟
室町時代に相国寺で修業したのが雪舟で、雪舟は、風景画のイメージが強いが、「毘沙門天像」「渡唐天神図」(15世紀)など人物画も結構、描いていたのだと思いました。
今展では、雪舟の作品は少なかったが、本場・宋の留学で箔をつけて帰って来た雪舟が「私の師匠は相国寺の周文と如拙だった」と言わしめた室町幕府の御用絵師であり相国寺の画僧・如拙(じょせつ)と周文(しゅうぶん)の作品が、展示されていました。

「十牛図」部分
前回は、さほど興味がなかったのでサッと見ただけであったが、作品を見て回るのに自然発生した列に並んでいるとたまたま周文の「十牛図」(15世紀)の前で渋滞してたので立ち止まってじっくり見る機会を得ました。
円の中に描かれた悟りを開くまでの物語が面白かったので、家でネットで「十牛図」を探して見るとラストの悟りを得て布袋に姿を変えた牧童だった主人公が、着物はだけてだらしのないのビール腹の中年になっているというオチ(?)にちょっとがっかり
(優しい布袋様に失礼ですよね)
(「十牛図」は、部分の展示だったので、最後の円相は全部見れなかったような)
でも、周文画僧の墨の濃淡で表現された「十牛図」は、ほかのものと比べても柔軟な布袋様の表情や牛や四季の風景など繊細で柔らかな筆遣いなので自ずと禅の悟りへと導いてくれるようでした。
若冲、応挙などの江戸時代

今展でも相国寺にある中国絵画を見て学んだ伊藤若冲は人気で作品の前は人が多く、作品について語っている人が多かったです。
歴史や各式を重んじるアカデミックなところから遠いところにいる若冲だからこんなに自由に描けるのかなあと思う絵が「竹虎図」(18世紀)や「亀図」(1800年頃)「厖児戯帚図(ぼうじぎほうず)」(18世紀)などです。
前期展示の文正筆の「鳴鶴図」(14~15世紀)を狩野探幽や伊藤若冲も手本にして模写していますが、波の部分など若冲の個性が出ていいます。
デイズニーアニメに出て来そうなアニメチックなトラの絵の「竹虎図」も中国の絵を模写しているが「虎は日本にいないので、中国画を写す」という感じで想像を交えて描いていますが、ふっさふっさした毛並みが元絵以上にリアルです。
若冲と関係の深い相国寺の僧の後押しで金閣寺の大書院の50面の障壁画のうち「鹿苑寺大書院障壁画 一之間 葡萄小禽図(部分)」(1759年)の葡萄の絵は、リアルな部分と大胆にデフォルメして遊んだ部分とのバランスが秀逸で、穴の開いた葉も描きデザインとして生かしているのが現代的です。

「鹿苑寺大書院障壁画 一之間 葡萄小禽図(部分)」
繊細に制御しながらも行き過ぎんて言われていたかもしれません。
だからユーモラス部分も入れ現代の人にも好まれるのがよく分かり、若冲は「私の絵が理解されるまでに千年を待つ」と言っているように正統派とは違う魅力があります。
由緒正しき狩野派にはこんな絵は描かないのだろうと観ていたら後水尾天皇から相国寺に寄進された狩野派・探幽+ブラザーズ3人の合作「観音猿猴図」(1645年)の観音様を見ている2匹の猿が余白の抜け感もありなんとも可愛らしいではないか

「観音猿猴図」
この猿のグッツも売っていたので、若冲の「竹虎図」とともに人気があるようです。
若冲と相国寺の関係で、相国寺が所蔵する中国絵画の模写の機会を与えたり無名だった若冲の力を見抜き大仕事を任せた大典顕常の存在を知り相国寺というお寺がなかったら今の若冲ブームもなかったのではないか
「廃仏毀釈」の折に寺の存続が危ぶまれた際、宮内省に若冲自身が相国寺に寄進した「動植綵絵」(1757~1766年)を献上し土地を手放さずに済んだという経緯があり、逆に若冲がいなかったら相国寺はなくなっていたかもしれないと相国寺と若冲の縁は、赤い糸のように切っても切れないものだったと思いました。
(大英博物館みたいに略〇した訳でもないが、何で、相国寺の絵が皇居三の丸尚蔵館にあるの?って思ってたけど、こんな経緯があったんだ)
【国宝】になった伊藤若冲が見られる。リニューアルオープンの「皇居三の丸収蔵館
相国寺には中世より伝来するものもあれば、近世や近代の寄進などの新規受入により加わったものがあり、その中の伝・俵屋宗達「蔦の細道図屏風」(17世紀)は、リズミカルに蔦を微妙に変えて描き緑の山の中の道に自分がいるような没入感があります。
円山応挙の「大瀑布図」(1772年)は、長さが4mもあるので、長過ぎて下の部分は床に這わせて展示されていてそれが、あたかも滝壺を上から眺めるようなVR体験をしているように見えました。
スローシャッターで撮った写真のように水が糸のように滑らかに落ちる滝と渦巻く川の水との描き分けをよく観察し構成して描き、滝の轟音すら聞こえてきそうな迫力に思わず飛んで来る(細かい)水飛沫を除けそうになりました。(ウソです!)
(猛暑の日は、こんな涼し気な掛け軸を眺めて過ごしたいです)
相国寺文化圏
相国寺が他の寺院と違うところは、将軍足利義満の時代から積極的に中国から禅宗文化を取り入れ庇護してきたという文化的な下地があり、文画を愛した僧侶がいつの時代にもいていてそれに応えるアーティストがいたことです。
特に「相国寺文化圏」という美術の「界隈」が形成されて、江戸時代には画期的な展覧会が銀閣で行われ、近世の絵師に影響を与えました。
会場の東京芸大は若き才能を未来へ送り出すような芸術の教育機関ですが、学校という厳密なものではないが相国寺も雪舟のように周文に絵を習ったり若冲若冲の才能を見出し育成したりと通ずるものがあり、師と仰ぐような先達から学んだことをさらに未来へと橋渡しして、文化の中心にあったお寺文化を点で終わらせることなく繋いでいくところは共通するものがあるように思えます。
書や墨絵のようなモノクロームのものが多く、地味な印象だが墨の濃淡だけで描くので筆遣いの巧さが伝わります。
ただ、水墨画など時代の古い絵は近くで見ないと分かりにくく、ガラスケースに入っているものは見る場所によって光ってよく見えないときがあり、直接触る人はいないと思うが、クシャミや咳の飛沫で作品が汚れてしまうこともあり得るのでこれは、仕方がないのであろう
しぼり菜リズム(まとめ)
「相国寺展 金閣・銀閣 鳳凰がみつめた美の歴史」(東京藝術大学美術館)に行きました。
相国寺は、創建から640年、多くの芸術家を育て国宝、重要文化財級の名作を生み出し美術の部門で時代を担ってきた寺院だったことが分かりました。
雪舟が師と仰ぐ如拙、周文の画僧の存在、伊藤若冲が相国寺が所蔵する中国絵画の模写の機会を与えたり無名だった若冲の力を見抜き大仕事を任せたたり、明治の時代に若冲の絵によって寺院の存続が守られたりというお寺との結びつきを知りました。
■「相国寺展 金閣・銀閣 鳳凰がみつめた美の歴史」
会期:2025年3月29日(土)~5月25日(日)
会場:東京藝術大学大学美術館