フェルメール、ゴッホ、伊藤若冲、田中一村に共通することは?
彼らの共通点は、亡くなってから評価が高くなった画家で同時に死後、人気の出た画家です。
その中の田中一村の大回顧展「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」(東京都美術館)が開かれたので行きました。
田中一村
私は、全く田中一村(1908〜1977年)を知りませんでしたが、展覧会に行き平日でも観客が多く彼の人気の高さに驚きました。
館内の経歴やネットの情報を見ると幼少期から神童と謳われる程の絵の才能がありながら個展の開催もままならず生涯、中央画壇で認められることなく世を去った不出世の天才で、今回のような展覧会の人気は亡くなってからのものだというのを知りました。
同期に東山魁夷や橋本明治らがいる東京美術学校(現東京芸術大学)の日本画科に入学しながら2か月で中退したこを発端に中央から遠ざかり、生涯、一村の画業人生に光が当たることはありませんでした。
一村には、支援者もいたが南画と訣別し自らの心のままに描いたので離れてしまい、名のある公募展に出展するも2点のうち1点は入賞したが本命の作品が落選したので納得出来ずに入選を辞退したことや院展にも落選し賞に無縁となります。
とここまでは「going my way」、「自分の芸術を追求したい」という一途で自分の意に沿わないことには迎合しないような一村の孤高の芸術家像が見えます。
ただこのままでは人生、終われないと思ったのでしょう
そこから背水の陣で、今までの画業人生を変えようと一大決心をし家を売って奄美に単身移住します。
1960年代初頭の頃の奄美大島は、日本の最南端の島(沖縄は返還前)で、自然も風土も本州とは全く違い、島での生活はギャンブルでいうとオールイン、清水の舞台から飛び降りるくらいの大胆な決断だったと思われます。
(画業人生を賭けた命懸けの選択だったかもしれません)
奄美での生活は、地元の染色工場での仕事をしてお金を貯め、貯金を切り崩して絵に専念するという生活を繰り返し絵を描いていたが、日本画は画材にお金が掛かるので念願の個展も開くことが出来きずに中央画壇に認められることなく69才で亡くなります。
(奄美時代の写真を見ると簡素な高床式住居にに住み、裸の上半身は、鎖骨が浮いてやせ細っていて高価な絵具を買うためにかなり切り詰めた生活を送っていたことが想像されます)
生きているうちは、公募団体展で入賞出来ず画壇デビューの機会を逸し、一度も個展も開いていないので一村の絵は、世間に広くお披露目するような機会がありませんでした。
このように一村の絵は、埋もれて日の目を見なかったが、死後、NHKでのテレビ放映や地方紙の連載で注目され、さらに各地での巡回展の開催で一躍脚光を浴びるようになり今では、根強い人気と画家として不動の地位を築いています。
芸術の世界は、いかに多くの人の目に触れ作品の存在を知ってもらうかが重要で、いくら才能があっても無人島で絵を描いて誰にも見てもらえないような状況(例えです。奄美大島は無人島ではないです)では作品そのもが存在しないものになってしまうのだと思いました。
一村の時代にSNSやインターネットでもあれば、無名であっても多くの人に絵を見てもらうことが可能で、また違った展開もあったでしょう
奄美大島シリーズ
田中一村がこのような苦労人であることを知って、一村の到達点である奄美大島で描いた作品のコーナーに入ると何か感慨深くじ~んとくるものがありました。
奄美で描いた作品は、仕事をしながら制作したので30点くらいしかない希少性の高いものです。
この奄美大島シリーズで南国の光や風土に触れ今までないような新しいタイプの日本画を切り開き、斬新だけど品もあます。
この時期の絵を官能的だと評価する人もいて「アダンの海辺」などは、どこか色気があるような気がします。
アンリ・ルソーの絵画を彷彿とさせるような独特な構図、強烈な色彩だけど日本画がベースなのでどこかエキゾチック
亜熱帯のジャングルを描いたものは、森の中からの視点で描いているように見え不思議な感覚に陥ります。
一村は、写真を学んで造詣が深く生涯を一村に捧げた姉を撮った写真はポーズも決まったプロの写真家のポートレートのようで、この写真で「光」の表現を身に着けたのか南国の光を上手く捉えて描いています。
「逆光」の光を取り入れたような光と影の表現もして、植物の透け感など重層的なイメージを与えます。
「アダンの海辺」と「不喰芋と蘇鉄」が並んで展示されているのが圧巻で、「アダンの海辺」の絵の前に人がいなくなった頃合いを見て立つと魂を揺さぶるようなオーラに涙が出そうになりました。
何故、この絵は、こんなに心揺さぶるのだろう?
命を懸けて全身全霊で描いたから絵だからか
今までの不遇な経歴も知って見たからか
このような絵の持つ力は、印刷やモニターの画面では伝わらないし、見る角度によって光って見える砂の一粒一粒の精緻な描写や浜辺に打ち寄せるさざ波細かさは近くで見ないと分からないのでやはり絵は、実物を見ることに限る思いました。
「アダンの海辺」の広角レンズで撮ったような画角、日本画の中に西洋の遠近法を取り入れ中央に極色彩のアダンの実を持ってくるような不思議な構成は彼独自の唯一無二のもの
サンゴ礁のエメラルドグリーンの海でなくとも南国らしい夕景のまどろみを見事に表現し、生命力溢れるアダンの実と静謐だけどリアルな描写の海や砂や抽象的な空と一体になっているのもいいです。
(う~む、水平線の向こうは、浄土なのかもしれません)
奄美シリーズこのばかり書いているが、今回の展覧会は、それ以前の作品の方が多く8才くらいからの絵もあり神童と謳われた程、まるで大人が描いたような大人びた絵を描いているのには驚きました。
古典的な自然や花鳥風月をテーマにしたような日本画が多く、一見、奄美シリーズは別人が描いたように見えるがやはり地続きで、一連の絵を見ていると奄美は画業の集大成だというのも分かります。
島に移住する数年前に旅先の風景画を描いた色紙「ずしの花」(1955年)は、 明るく開放的な絵で一村が南国を選んぶことを暗示させるようです。
移住前の一連の絵から筆を折らず試行錯誤を繰り返していたことも分かり、このような技術の鍛錬を続けたから傑作と呼ばれる奄美シリーズが生まれたのでしょう
「榔樹の森に赤翡翠」や「白花と瑠璃懸巣」の未完の絵もあり、これらの絵の完成を見ることなく亡くなっているのでまだ志半ばであったと思います。
没後47年、今では飛ぶ鳥を落とす勢いの人気作家となった一村であるが、やはり本人が生きているうちに世に認められて欲しかったです。
しぼり菜リズム(まとめ)
田中一村の大回顧展「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」(東京都美術館)へ行きました。
幼少期から絵の才で神童と謳われるも自身の芸術を追求したことで中央画壇から距離を置き、一村の絵は、生前は、日の目を見ることがありませんでした。
そんな状況を打破しようと心機一転、奄美大島に移住し亡くなるまで絵を描くために働きながら「アダンの海辺」などの奄美大島を題材にした絵を描きました。
生前、評価されることがなかった一村ですが没後、テレビ放映などを機に評判を得て知名度を高めます。
精魂込めて描いと思われる「アダンの海辺」は、彼の画業の集大成ともいえ、唯一無二の構成力と生命力溢れるアダンの実と静謐だけどリアルな描写の海や砂や抽象的な空と一体になった絵で胸に迫るものがありました。
■「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」
- 東京都美術館
- 2024年9月19日(木)~12月1日(日)