「井草八幡」へ行きました。
の続きです。
井草八幡宮
井草八幡の歴史は、縄文期から人々が生活していた此の地に神が祀られ、神社としての形態を平安時代末期といわれています。
創建時期については定かではないのだが、鎌倉時代、建久年間 (1190 ~ 98年) と考えられています。
神門を潜ると入り母屋造りの立派な拝殿があり、平安時代末期に造られたと考えられています。
当初は春日神を祀っていましたが、源頼朝が奥州討伐の折、八幡神を合祀して戦勝を祈願して以来八幡宮を合祀するようになりました。
この頼朝に関連して明治時代まで源頼朝伝説によりこの付近の地名は遲野井、遲野井八幡宮と呼ばれていました。
絵馬は、奈良時代には既にあったようだが頼朝は、絵馬に戦勝祈願を書いたのだろうか?
いや、絵馬に書いて祈願したのではなく「松」を手植えしたようだ。
本殿前の中庭に一本松が聳え立っていてこれが、「頼朝公お手植えの松」です。
源頼朝は、1186年 (文治2年) に奥州藤原泰衡征伐の際にここに立ち寄り戦勝祈願を行い、奥州平定後、お礼参りで雌雄二本の松を手植えしたと伝わっています。
(頼朝の奥州征伐の鎌倉から相模、武蔵、下野を経て陸奥に入り白河の関を越えて多賀城、平泉へ進めたルートの途中で寄ったということだろうか?)
二本の松のうち雌松 (赤松) は明治初年に枯れ、雄松 (黒松) は昭和47年 (1973年) に強風で大枝が折れて枯れてしまい、その後、二代目の松が植えられて現在に至っているそうです。
枯れた雄松の根の一部は、回廊内に展示されていました。
この神社を戦勝祈願した歴史上の人物がもう一人いて、1477年(文明9年)に太田道灌が石神井城の豊島氏を攻めるに当たり戦勝祈願をしたと云い伝えられています。
太田道灌は、戦勝祈願にここから青梅街道沿いに1㎞ほど東にある荻窪八幡宮にも槙の木を植えています。
井草八幡宮は、江戸時代には、徳川家光による六石の朱印領の給付、寺社奉行井上正利に社殿造営をさせるなど篤く崇敬され保護されました。
家光以降幕末まで歴代将軍から朱印地の寄進があり、氏子崇敬者により石燈篭、石鳥居、狛犬、手水盤なども奉献されました。
井上正利再建の本殿は、杉並区最古の木造建築物で拝殿奥の耐火造りの鞘堂に納めてあります。
拝殿に行く途中にあった「御神水(ごしんすい)」
御神水は、神様の御神威を水を通じて頂くもので、霊験あらたかなお水です。
境内は、街道沿いにあるけど静かです。
奥に見えるのが、青梅街道に面した東参道の入口の高さ9mの大鳥居です。
東参道はゆったりと広く、両側にバメガシの垣根が整えられ、その奥にはイチョウ、クスノキ、シラカシ、イロハモミジ、ケヤキの大木がうっそうと続きます。
10月の祭日、3年ごとに神輿の渡御、5年ごとに「流鏑馬」の神事がここで行われ、大鳥居付近から馬が走りますが、これほど長い直線距離(200m)のある神社は都内ではここだけだそうです。
流鏑馬の的の場所を表す石柱です。
神社の境内は、巨木が多いことで井草八幡宮も遠くからでもそこが神社だということが分かります。
神は樹木にも降臨されるとし古来、巨樹・巨木は神聖なものと信じられてきました。
本殿前の中庭だけでも見上げるような大きさのイチョウ、ケヤキ、マツ、クスノキ、マキが立ち並んでいます。
井荻八幡宮は、周辺が住宅地に囲まれている典型的な都市域の神社で、境内の外は、すぐ住宅地密集地です。
東参道鳥居の正面(青梅街道を渡った側)の「うな藤」の鰻が美味しいです。
しぼり菜リズム(まとめ)
井草八幡宮は、境内地は、約1万坪と都内でも有数の広さの鎮守の森で、ご神体は「八幡大神」で創建は11190 ~ 98年ともいわれています。
1186年には、源頼朝が奥州征伐の戦勝を祈願して手植えの松を寄進したと伝えられたが枯れてしまい、現在は2代目の松が植えられています。
1649年には、徳川家光より社殿造営と朱印領六石を寄進され、10月の祭日、3年ごとに神輿の渡御、5年ごとに流鏑馬の神事が行われます。
この辺りは、「井荻ウド」が作られ「東京ウド」の発祥の地でもあります。
井荻八幡宮 杉並区善福寺1-33-1
〈参考文献〉
-
- 「杉並区探訪」森泰樹著 杉並郷土史会
- 史料「史跡見学会 住宅地・杉並はここから 井荻を知る」 杉並郷土史会
- 「みどりとひと No182」杉並区都市整備部みどり公園課
- 井荻八幡宮HP
- 杉並区HP
- Wikipedia「井荻八幡宮」ほか