善福寺公園から北へ400mほど行くと「井草八幡宮」があります。
家から割と近いのだけど、中に入ったことがないので今回、境内に入ってみました。
自転車で行きましたが、北側富士塚の前と南側西鳥居付近に駐輪場が2か所あります。
井草八幡宮
北参道入口大灯篭
入口は、4か所あり一番、派手なのが早稲田通リ沿いの朱の大灯篭のある北参道入口です。
両側には、ケヤキ、クスノキ、マテバシイ、シラカシの高木が立ち並んでいます。
鳥居が新しいと思い調べたら、東日本大震災で破損した石鳥居 (昭和33年建立) に代わって、2013年 に建立されたものだそうです。
目立つのが、大灯篭で、高さは約9mで、屋根は銅板葺きで八畳分の広さがあります。
(地震でよく神社の燈籠が落ちるけど、耐震は大丈夫なのかな?こんなに大きな灯篭が落ちてきたら怖い!)
井草八幡宮は、境内地は、約1万坪と都内でも有数の広さの鎮守の森で、この地域一帯は遅野井とも称されたことから明治期までは遅野井八幡宮とも呼ばれていました。
境内に一歩足を踏み入れれば、静かで厳かな空気に包まれます。
井草八幡宮は、祭神として「八幡大神 (やはたのおおかみ 応神天皇) 」を祀っています。
平日の昼間、赤ちゃんのお宮参りの家族が一組と参拝者がパラパラいるくらいで境内は、閑散としていました。
西の鳥居横に「手水舎(ちょうずしゃ)」があります。
手水舎は、鳥居をくぐってすぐのところにあり、拝礼の前に手を洗い口をすすいで身を清めるためにあります。
手水の作法で使う柄杓がないのは、コロナの影響でしょうか
神社南側、神楽殿の裏手に奉納された楕円形の石が並び、これは「力石」です。
力石は、その年の豊作を占う石占いとして始まりその後は若者達による力自慢を競う石担ぎとなり、この井草八幡宮では例祭で石担ぎが行なわれ、その力石を奉納する習わしがありました。
石には村名、重量や奉納者などが刻まれたものが16個あり、一番重いもので60貫(225kg)の石が奉納されて、ウエイトリフティングが重量級が100kg超だからこれを持ち上げた人は、オリンピックレベル以上です。
「杉並歴史探訪」(森泰樹著 杉並郷土史会)によると旧井荻村の農家は、明治中期から栽培した練馬大根を沢庵漬にして出荷して、その沢庵を漬ける重石で仕事の合間に若衆が石担ぎをして競い、鎮守の祭りでは、村だけでなく近郷近在から力自慢の連中が集まり大勢の見物人を前に石担ぎの腕比べをしたとのことです。
優勝記念は、担いだ石に名を刻んで奉納したそうです。
昭和46年(1971年)建立の鉄筋コンクリート造りの楼門です。
楼門には、左右に豊磐間戸神(よいわまどのかみ)と櫛磐間御戸神(くしいはまとのかみ)が納められています。
楼門の右手に安政4年 (1857年) に奉納された三ツ巴紋の手水舎です。
手水舎の奥に犬小屋のような小さな祓戸神社(八雲神社が合祀)と三宮神社(天照大御神、春日大神、天満天神を合祀)があります。
井草八幡宮の境内にいくつもの神社あり不思議だなあと思っていたら、主祭神と縁が深い神様が祀られている摂社(せっしゃ)や末社がある神社は結構、多いようです。
手水舎の近くに「井荻ウド」と書かれた立て看板がありどうやら東京のウドの発祥がこの辺りで、JAとあったので、帰ってから調べました。
「JA東京中央会」のサイトによると
井草八幡宮を中心とする地域は、江戸時代に入ってからは、青梅街道を通じて野菜の生産や薪で生計をたてる農村として発展し、数少ない日本原産野菜であるウドの栽培法を尾張で習い栽培が普及し付近一帯に広まっていきました。
地下で日光に当てない栽培技術を確立しましたが、都市化の進展によりこの地の栽培量は大幅に減少し、その後、北多摩方面に移った産地は、「特産東京ウド」として全国にその名声を博し井荻ウドはその発展に大きく貢献した。
ということで、神社とあまり関係なさそうなこんなトリビアが面白いです。
絵馬は、「合格祈願」が多い印象で
八幡宮の主祭神である八幡大神は、「文武の神」「平和の神」「母子の神」「子授・安産・子育ての神」であり学問に関してもご利益がありそうです。
別の日に行ったら拝殿に向かって境内に一台の一般車両が堂々と入って来たのでアレっと思いましたが、交通安全祈願や「車」のお祓いというのがありこの車は、車ごと神社に乗り入れてお祓いをしてもらうようです。
井草八幡は、かつて豊富な湧水を集めた善福寺池や善福寺池を源流とする善福寺川を南に望む位置にあり、この豊かな水を求めて人が住み境内や周辺に縄文時代の住居跡や土器等が発見され宝物殿には、付近で発掘された重要文化財の「顔面把手付釣手形土器」が保管されています。
神社は、パワースポットとしても最強ですね
井荻八幡宮 杉並区善福寺1-33-1