特別展「法然と極楽浄土」(東京国立博物館)へ行きました。
法然
中世仏教界のスーパースターといえばやはり親鸞、日蓮で、法然(1133~1212年)は、浄土宗の開祖というのと、小説『親鸞』(五木寛之)での親鸞の師匠、念仏「南無阿弥陀仏」ということしか知りません。
我が家の宗派が浄土真宗で小説の『親鸞』影響もあり、鎌倉仏教のトップランナーは親鸞で、法然は、法然は親鸞というフイルターを通した存在・親鸞の師匠でしかなかったです。
でも、鎌倉仏教の源流は、法然であり『歎異抄』の「善人なおもて往生す。いわんや悪人をや」というのもオリジナルも法然というのをどこかで読んだことがあり、だとすると親鸞も法然がいなければ親鸞になり得なかったはず
そんなことも踏まえ事前に調べたり、第一章の法然について紹介する章で、ざっくりと主人公法然についてに知識を入れます。
法然は、親鸞のように僧侶の妻帯は戒律で禁じられている結婚をしたという面白いエピソードあるのかと年表などを見ると法然は、ただただ高潔な人格者だったようです。
でも、生涯を文献や絵巻で追うと(後から調べたものも含めて)
幼少期に武士である父を亡くし、父の遺言どおり武士と生きるのではなく出家して僧侶になる道を選び仏教を学ぶため比叡山に登り、優秀な人材が集まる現在の超エリート大学のような比叡山で学問と修業に30年励み優秀な僧になります。
しかし、比叡山では自分の求める仏教とは出会うことは叶いませんでしたが、転機はやってきます。
(法然の求めた仏教とは、「万人を救うことのできる道」です)
43歳のときに中国の善導の著した『観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ)』に「念仏こそが往生のための正しい行である、これは阿弥陀仏の願いに順うものだからだ」という言葉を見つけ、そこから「専ら念仏すれば浄土に往生出来る」という専修念仏の教えに法然は到達したのです。
(苦節30年です)
万人を救う道とは、阿弥陀仏を信じただ「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱えれば、誰もが等しく救われ「極楽浄土」に行けるというもので、この専修念仏(せんじゅねんぶつ)の教えを説いて開基したのが「浄土宗」です。
法然の専修念仏の教えは、その容易さから多くの人々の支持を得て広まり諸宗の高僧や関白・九条兼実、後白河法皇までもが信仰することとなりました。
会場には、「念仏こそが、末法の世に相応しい行いであるのだよ」と九条兼実の求めによって記された文献『選択本願念仏集』(12~13世紀 蘆山寺)があり冒頭の太い目立つ文字は、法然の自筆であるとされ歴史上の人物であった法然が、一気に身近な存在になりました。
法然の専修念仏の教えは、当時、ある種のムーブメントだったのでしょう
そのため既存の仏教会からは疎んじられ後鳥羽上皇とのゴタゴタもあり法然は、75歳のときに讃岐国に流されることとなります。
(この頃の延暦寺が専修念仏の停止を訴えたときに弟子達に守るように戒めた『七箇条制誡(しちかじょうせいかい)』の僧達の署名の中には、「綽空」こと若かりし日の親鸞聖人の直筆のサインもありました)
その後、帰京し80歳で往生を遂げたが、弟子達が様々な方法で法然の教えを記録し後世に伝えていきます。
と法然は、ただ人格者だけではなく波乱に満ちた人生きたこと分かりこのように少しでも法然や浄土宗について知れば、信者でもなく浄土宗を知らない私でも展示物を興味深く見ることが出来て展覧会の敷居も低くなります。
法然の人生の中で、特に印象に残ったのは、30年掛けて「万人を救う道」を追求し『選択本願念仏集』に辿り着き解得したというくだりです。
修業をして「石の上にも3年」ならず30年、諦めずに続けていれば何事も成す、見えてくるものがあるのだという宗教にも匹敵するようなヒントがその生き方の中にあったことです。
浄土宗と美術品
会場を入ってすぐに當麻寺奥院の『法然上人の坐像』(14世紀)がお迎えして下さいます。
この像は、鎌倉時代に作られた数少ない法然像ですが、肖像画の西郷隆盛のような頭の頂が平らで角ばったものとは違い頭の形が丸みを帯びていてどちらが実像に近いのかと思いました。
法然の像は、ほかにもあり、「法然上人坐像」(13世紀 百萬遍知恩寺蔵)は、裸の像を作って布製の衣を着せてあり珍しいと思いネットで調べていたらこんな記事がありました。
「【速報】法然上人「裸像」を調査 文化財級か」という記事で、裸の像に法衣を着せていて、法衣は、人が着る衣と同じ縫製が行われ白衣や襦袢(じゅばん)、褌(ふんどし)まで着せていることが判明とあり褌姿の法然を想像すれば、聖徳太子のように過度に神格化した成人君主でない人間・法然の姿が想像出来ます。
【聖徳太子】は、実存したか?『聖徳太子 日出づる処の天子』展で見たものは
新興宗教は、信者獲得のために宗祖の絵伝を作ることがあり、特に浄土宗では絵巻作成に熱心で、国宝・全48巻の『法然上人絵伝』(14世紀 知恩院蔵)やゆかりのあるお寺の絵巻での法然は、やはり他の子どもとは違う、凡人ではないという場面が多くカリスマ性、偉人感を前面に出した伝記仕立てになっています。
こういう絵巻は、宗教的な意味合いから作られたものですが、絵画として鑑賞出来また、当時の様子を知る貴重な資料にもなって文字だけを追うよりストーリーもあり楽しめます。
浄土宗の中心的な信仰対象は、極楽浄土に住む「阿弥陀如来」で、法然の教えの広がりとともに様々な阿弥陀仏が描かれ作られていきました。
その中の3年の修理を経た『法然と極楽浄土』の展覧会のメインビュジュアルである国宝の『阿弥陀二十五菩薩来迎図(早来迎)』(14世紀 知恩院蔵)は、阿弥陀如来が、菩薩達を引き連れて往生を願う臨終の念仏者をお迎えに来る様子が描かれています。
まるで波を巧みに操るサーファーのように雲の波に乗った神々しい阿弥陀如来、菩薩軍団が山を駆け下りて来ればたとえ、現世に未練があっても(あの世に)行かない訳にはいかないであろうと思いました。
(こんな風にお迎えが来るのなら、極楽浄土に行ってもいいと思わせる来迎図ですね)
もう一つの国宝『綴織當麻曼荼羅(つづれおりたいままんだら)』(奈良時代 當麻寺蔵)は、極楽浄土はこんな素晴らしいところだよというのを糸で織った綴織(つづれおり)に表したもので、縦横4メートルの圧倒的な大きさに驚くけれど色彩がほとんどなくってしまい中央の阿弥陀如来だけが何となく分かります。
当時は、鮮やかな色彩だったろうに、やはり難しい教理よりこういう視覚に訴える絵の方が、万人に受け入れられ信者獲得に繋がったのでしょう。
後半には、徳川家にゆかりの深い港区の増上寺の『五百羅漢図』(狩野一信 19世紀)があり徳川家と浄土宗と徳川家の関係を調べると三河の松平氏が浄土宗に帰依していて、その末裔が徳川家康ということでした。
家康は、増上寺を江戸の菩提寺、知恩院を京都の菩提寺と定めたことで、浄土宗の地位が不動のもになり、増上寺や知恩院には浄土宗に関する貴重な文献や美術品が多く残っています。
会場の最後に法然ゆかりの香川県の法然寺に伝わる『仏涅槃群像』があり、写真を撮ることが出来ました。
釈迦入滅の場面は、通常は絵画で表すのだけど、こんな立体的なリアル「涅槃図」は珍しいようで近くで見る2メートルを超える巨大な寝釈迦像は迫力があります。
お釈迦様の入涅槃を聞きつけ、多くの弟子達や動物が悲しみ、嘆いている様子が見て取れよく見ると猫や鳥、猿に架空の動物もいて動物達の表情も豊かでほのぼのとします。
しぼり菜リズム(まとめ)
特別展「法然と極楽浄土」(東京国立博物館)へ行きました。
30年の修業の後、43歳のときに「念仏こそが往生のための正しい行である、これは阿弥陀仏の願いに順うものだからだ」という言葉と出会い、そこから「専ら念仏すれば浄土に往生出来る」という専修念仏の教えに法然は到達します。
法然の教えは、阿弥陀仏を信じただ「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱えれば、誰もが等しく救われ「極楽浄土」に行けるというもので、この専修念仏(せんじゅねんぶつ)の教えを説いて開基したのが「浄土宗」です。
法然の専修念仏の教えは、その容易さから多くの人々の支持を得て広まり法然の死後は、弟子達によって様々な方法で法然の教えを記録し後世に伝え、徳川家康によって浄土宗は不動の地位を獲得します。
法然、浄土宗に関する文献や絵巻や『阿弥陀二十五菩薩来迎図(早来迎)』『綴織當麻曼荼羅(つづれおりたいままんだら)』などの美術品や文化財を展示し浄土宗の歴史を通覧することが出来ます。
特別展『法然と極楽浄土』
2024年4月16日(火)~6月9日(日)、東京国立博物館 平成館