特別展『本阿弥光悦の大宇宙』(国立東京博物館)に行きました。
本阿弥光悦
若い頃、本阿弥(ほんあみ)光悦ゆかり光悦寺の竹の透かし垣「光悦垣」が好きで、わざわざ光悦寺まで見に行ったことがあります。
茶室と寺の境内を仕切った「光悦垣」は、割り竹を粗い目の菱形に組み、割り竹の束をのせたもので、本阿弥光悦が好んだことに由来し庭によく調和していました。
この光悦寺は、京都鷹峯にある日蓮宗の寺で、1615年に本阿弥光悦が徳川家康からこの地を与えられ、ここに草庵を建て本阿弥一族や芸術仲間、弟子、職人衆と共にこの地に移り住みました。
本阿弥光悦は、江戸時代初期、書家・陶芸家・画家・茶人など多彩な顔を持ち、国宝2点、重要文化財18点の作品を残し「琳派」の祖となった芸術家です。
光悦寺に行ったときは、本阿弥光悦という芸術家の名前は知っていましたがどんな作品を残した人か知りませんでした。
私が光悦の作品に触れたのが、『国宝 東京国立博物館のすべて』(国立東京博物館)の「舟橋蒔絵硯箱」で、これを見て一気に光悦に親近感が湧きました。
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舟橋蒔絵硯箱
本阿弥光悦に興味を持ったのが、『国宝 東京国立博物館のすべて』で見た「舟橋蒔絵硯箱」です。
一目見た硯箱の印象は
どこから見ても、「醤油を刷毛でたっぷり塗って焼き、海苔で巻いた「磯部餅」」
というもので、国宝なのに何だかつややかなお餅が美味しそうに見えたというインパクト大の展示品でした。
硯箱だけど、蓋を山形に盛り上げ角が丸く実用性を無視した独創的なフォルムで、よく見ると文字が書かれて
文字は、銀板を切り抜いて立体的に張り付けた銀文字で「東路乃 さ乃ゝ かけて濃三 思 わたる を知人そ なき」と散らされています。
これは、『後撰和歌集』の「東路の佐野の舟橋かけてのみ思い渡るを知る人ぞなき(思いをかけてずっと恋し続けている事を知ってくれる人(女性)がいないことよ)」(源等(みなもとのひとし))という歌だけど「船橋」の字が入っていません。
(舟橋は、船を沢山浮かべて橋の代わりにしたもの)
「船橋」を省略して表しているのは、中央を横断する鉛の黒い海苔の部分が橋で、橋と直交するように四艘の小舟を横に連らねて描き
抜けている「舟橋」は、硯箱の「舟」と「橋」のモチーフから読み取りなさいねという鑑賞者の知性を求めるものです。
元の歌や古典の知識や美意識を持ち合わせていない私は、解説を読むまでこんな光悦の粋な計らい?に気付かず、「磯部餅」の金粉をびっしりと撒いた蒔絵や鉛の橋、川に浮かぶ舟の外観ばかりに気を取られていました。
銀で型取りはめこんだ書も光悦自ら書いた文字で、さすが書の名人光悦だと深読みもしませんでした。
敏腕プロデューサー・光悦
特別展『本阿弥光悦の大宇宙』でも、展覧会の目玉のひとつとして「舟橋蒔絵硯箱」 があり
今回は、「舟橋をかけるように、ずっと思いをかけ続けているのに、それに気づいてくれる人がいないとは残念なこと」という恋歌を念頭に置き、隠し言葉である「舟橋」の4艘の「小舟」と「橋」をしっかり目に焼き付けました。
と同時に漆や蒔絵のプロではない光悦が、高い技術が施されたこの硯箱をどうやって作り上げたのか?という疑問を新たに持ちました。
実は光悦、この硯箱だけではなく共同で多くの名作を残していて「舟橋蒔絵硯箱」もその1つと推測されます。
冒頭の光悦寺を中心とした場所に陶工、絵師、蒔絵師、筆屋、紙屋、織物屋などの職人を呼び寄せて一種の「芸術村」を作り彼らとともに幅広いジャンルの芸術を作り出していました。
光悦は代々刀剣を研ぎ、鑑定する家の生まれで、鞘や鍔等に日本の工芸品が結集された日本刀の名品に触れることで養われた審美眼と美意識で、書や陶芸の達人としてだけではなくの芸術村(光悦村)のプロデューサー的役割を担ったようなのです。
(刀剣の目利きの力量は、後に徳川将軍らにも一目置かれるほど)
光悦は人を使う力にも優れ、町絵師だった俵屋宗達を見出し「鶴下絵え三十六歌か仙ん和歌巻」(本阿弥光悦筆/俵屋宗達下絵)のように共に美術史に残る名作を残し
個人では出来ないことも、優秀な仲間と共に実現させていく敏腕プロデューサーとしての才能を発揮しました。
それにしても、「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」の宗達が描いた鶴が舞う長~い料紙に躊躇なく一発勝負で書く度胸が凄いです。
(間違いは、許されないからね)
書は、何が書いてあるか分からないけど、細い線と太い線の強弱、流れるようなリズム感で飛び立つ鶴と相まってビジュアル的な訴求力があります。
職人仲間の楽焼の楽家とも親しくし茶碗の創作に力を注ぎました。
ろくろを使わない「手づくね」による茶碗は、頃よく手に収まりそうで「掌(たなごころあ)」という言葉を思い出します。
俵屋宗達とコラボしたり楽焼の匠との親交による創作、蒔絵の硯箱にしても全てを光悦が作ったのではなく、例えば、漆や蒔絵の部分は、専門の職人が担当するというように光悦と優れた職人達の力を結集して作られたものというのが光悦芸術の側面なのです。
そんな光悦芸術を担ったのが光悦を中心とした芸術村の存在とネットワークでした。
光悦のネットワーク
本阿弥光悦が、自身のネットワークの中心に幅広い芸術活動を行いましたが、そのネットワークは、どんなものだったのか
一つは、本業の刀に関わる様々な技術者との繋がりです。
もう一つは、「日蓮法華宗」を信仰した本阿弥家と光悦は同じく日蓮法華宗を信仰した京都の有力な町衆(豪商)との強力なネットワークです。
これらのネットワークによってあらゆる芸術分野の技術を入手出来る立場にあり、信仰に裏打ちされた信頼関係や後ろ盾により広い分野で活躍出来たのです。
実は、「光悦蒔絵」など光悦由来の作品がどこまで光悦作品なのかはよく分からないという実情もあり、「舟橋蒔絵硯箱」も光悦アドバイス、プロデュースのもと作られた可能性があります。
光悦に関する資料が少ないので、謎の人物とされるところがあります。
だからこそ、家職に留まらない職人達とのやり取りやデザイン、素材の加工、造形を作り上げながらクオリティーを高めていった過程を想像し、アーティストだけではない光悦のマルチな一面を発見することが出来る展覧会でもあるのです。
しぼり菜リズム(まとめ)
特別展『本阿弥光悦の大宇宙』(国立東京博物館)に行きました。
本阿弥光悦は、江戸時代初期、書家・陶芸家・画家・茶人など多彩な顔を持ち、国宝2点、重要文化財18点の作品を残し「琳派」の祖となった芸術家です。
本阿弥光悦に興味を持ったのが、『国宝 東京国立博物館のすべて』で見た「舟橋蒔絵硯箱」で、その外見に親近感が湧き、『後撰和歌集』の歌の「船橋」の文字を舟と橋で描くという粋な作品でグッツも販売される程今展覧会でも人気でした。
光悦この硯箱だけではなく共同で多くの名作を残していて、俵屋宗達とも協業しています。
光悦は、本業の刀に関わる様々な技術者との繋がりや日蓮法華宗を信仰した京都の有力な町衆(豪商)との強力なネットワークで陶工、絵師、蒔絵師、筆屋、紙屋、織物屋などの職人を呼び寄せて一種の「芸術村」を作り彼らとともに幅広いジャンルの芸術を作り出し、その中でプロデューサー的役割を担ったようです。
家職に留まらない職人達とのやり取りやデザイン、素材の加工、造形を作り上げながらクオリティーを高めていった過程を想像し、アーティストだけではない光悦のマルチな一面を発見する楽しみのある展覧会でもあります。
■特別展「本阿弥光悦の大宇宙」
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- 会場 国立東京博物館
- 会期. 2024年1月16日(火)~3月10日(日)