眼鏡(棟方志功着用)
「世界のムナカタ」として国際的に評価された版画家の棟方志功(1903~75年)の大回顧展「生誕120年 棟方志功展 メイキング・オブ・ムナカタ」(国立近代美術館)へ行きました。
棟方志功
棟方志功は、何かの映像で見たのであろう(動いていたから映像)
版木すれすれに顔を近づけて一心不乱憑りつかれたように物凄い勢いで彫り上げていくイメージは、ともに時代の寵児となったエキセントリックな岡本太郎や独特な風体の山下清とともに強烈なビュジュアルの印象があります。
ド近眼、瓶底眼鏡の憑りつかれたような鬼気迫る姿は、子どもの頃は、青森出身の棟方が「青森出身、恐山、イタコ」という子どもの勝手な想像力で何かが(何かの霊が)憑りついているかと思っていました。
棟方志功は、青森から「わだ(我)ばゴッホになる」と上京
それから独自の世界観を構築し、海外で数多くの賞に輝き「世界のムナカタ」と呼ばれるようになります。
創作活動は、板画をはじめ倭画、油絵、書など多岐に渡り数多くの傑作を残しています。
板画
倭画、油絵、書ど創作活度は、多岐に渡りますが、何といっても棟方志功の本命は「版画」なのでしょう。
自らの作品を「版画」ではなく、板の声を聞き板の命を活かす「板画」だと呼びそこから、骨太で力強い生命力を感じさせる独創的な作品を生んでいきます。
この90㎝を超える版画12作品をわずか1週間で完成させ、ベネチア・ヴィエンナーレの版画部門で日本人初のグランプリを受賞する快挙を成し遂げています。
↓板画の「二菩薩釈迦十大弟子板画柵」の版木の一部で、二菩薩釈迦の弟子右から3人目の富樓那(ふるな)のどこか(部分)です。
どの部分でしょうか?
板画の何かに憑りつかれたようなスタイルの掘り方は、考えに考えて作っている訳ではなく感性で作るという天性のものもあるのだけど
棟方のお孫さんが「日曜美術館」(NHK Eテレ)で「やみくもではなく、彫るべきものが計算しつくされて全体を見ている。だからそれに従って彫っているだけで一気呵成に彫り上げた」
みたいなことを言っていて、もちろん、棟方に憑りついた誰かの意図で彫っていた訳ではないけれど趣くままという訳ではないようです。
棟方志功は、幼少期から目が悪く50代で左目を失明しているが、「版画彫刻刀を持つと見えてくる」と前述のお孫さんが言っていてやはり頭の中に下書きや彫るべきものがあって、それに従って彫っているのだと思いました。
縦3メートルの巨大な屛風「幾利壽當頌耶蘇十二使徒屛風」(五島美術館蔵)は、約60年ぶりの展示です。
白と黒のボリュームのバランスがいい
白と黒のバランスをとるために彫刻刀を使い分け、鋭いストレートな堀や緩やかにカーブした堀り多彩な掘り方をしています。
高さが3m×幅1.8mという、日展の規定内のギリギリを攻めたサイズで近くで見もて離れて見ても迫力があります。
白と黒のコントラストが究極の板画の美しさとした棟方ですが、モノクロだけではなくこんなカラフルな版画もあります。
しかも、描写が細やかです。
3都市での生活
棟方志功は、生涯、青森、東京、富山に移住し拠点としました。
3都市にまつわる作品とエピソードをとその中でいくつかの作品をセレクト
出生の地青森
生まれ故郷の山を描いた貴重な油画で、ゴーギャン、セザンヌ、ロートレック、マティス、ピカソなどの西洋画を独自に学びゴッホに感化されていた当初は、ゴッホと同じ油絵を描いていました。
(西洋画に影響を受けているので、セザンヌの「サント・ヴィクトワール山」にどこか似ているような)
この頃は、「ムナカタらしさ」はまだないし、名だたる展覧会に油絵を出品しているが軒並み落選しています。
東京での、出会い
でも、めげない
「日本のゴッホになる」とう夢、「世界のムナカタ」になるとという大志を抱いて青森から東京に上京します。
東京では、文士や民藝運動の「人との出会い」が新たな境地を開き軸足を変えるきっかけとなり
油絵画家を目指していたけど「油絵は、西洋のモノ。頑張っても西洋人を超えられないのではないか?」
「日本人として日本の芸術「版画」を極めよう!」と版画家になる決心します。
特に柳宗悦らの「民藝運動」の人々との出会いが大きく、日本回帰し仏教思想も取り入れた見れば棟方と分かるオリジナリティ高い作品を生み出し評価がされていきます。
以降の作品は、民藝の影響が随所に感じられるものが多いように感じました。
「東北経鬼門譜」の飢饉に苦しむ東北の救済を祈念した10m近い六曲一双という型破りなサイズの屏風は、120枚もの板木を使って制作、何枚もの紙が合わさって一つの作品になっています。
文学者との交流も深く谷崎潤一郎と出会い『鍵』の装幀をし、文学と美術の協業が話題になり棟方を国民的芸術家に押し上げます。
戦争で疎開した富山
東京空襲が激しさを増すと家族とともに富山・福光(現・南砺市)へと疎開
独自の人的ネットワークを構築し、浄土真宗の根付く土地柄と自然豊かな環境に民藝の「他力」思想を見出した棟方は、光徳寺の襖絵制作や筆の仕事などでそれを実践しました。
この襖絵は、両面に「華厳松」と「稲電・牡丹・芍薬図」が描かれた大作で、棟方の脂の乗ったパワフルな仕事ぶりが体感出来ます。
民藝の恩人、河井寛次郎宛に作られた「鍾渓頌」は、黒地に白い線で彫って輪郭線を残す技法で、その後の棟方作品によく見られます。
再び青森
戦後、東京に戻った後、海外で数々の賞を受賞し国内外で多彩な活躍を見せます。
「日本のゴッホになる」さらに、「世界のムナカタ」になった棟方ですが、「飛神の柵」(1968年)や、ねぷた祭りのためにデザインされた浴衣など故郷東北を題材にしたものを手掛け生誕の地である青森へと回帰していきます。
名声を手にしても、やはり生まれ故郷に対する思いが強く晩年は、青森で認められることが作品作りのモチベーションだったかもしれません。
パブリックアートの大作のひとつ、青森県新庁舎竣工を記念して制作された「花矢の柵」は、青森から文化を広めたいと作られもので立体感があります。
文化勲章を授章し名誉市民となり故郷に錦を飾った棟方ですが、故郷に恩返しをするつもりで作ったのかもしれません。
棟方がこの道を歩むきっかけとなった『白樺』に掲載されていたゴッホの「ひまわり」をオマージュした「大印度の花の柵」(1972年)
死の数年前に制作し、花瓶には自身の顔が描かれているのは、ついに「ゴッホになった」という意図があったのでしょうか
感慨深い作品です。
デザイナーとして
「弁財天妃の柵」は、切手や包装紙で馴染があります。
棟方志功は、「デザイナー」としてもいい仕事をしています。
本の装幀や挿絵、菓子屋の包装紙、パッケージ、ねぷた祭りのためにデザインされた浴衣といった日々の暮らしに密着したデザインも手掛けていて目にする機会も多いです。
装幀のみならず、挿絵や表紙絵、自らの執筆など関わった書籍の数はなんと1000冊超え!
(これは、強力な拡散力があったと思われます)
会場には、ベストセラー小説ほか雑誌など多数の荘画本があり、知らず知らずのうちにいかに多くの人が手に取り棟方作品に触れたことでしょうか。
ホイットマンの詩集を版画でアルファベットの文字を彫り出しビジュアル化したものは、棟方作品においても珍しい色彩でデザイン性が高いものです。
この「英字フォント」いい味出して、「フォント」化されたら使いたいくらいです。
日用品にも棟方作品は多く使われ、一般の人も目にする機会が増えたことにより版画そのものの認知度が上がり結果、版画の普及に貢献しました。
数々の権威ある国際的な賞を受賞して、多くの傑作を世に送り絵画より低く見られていた版画の地位も高めた棟方の功績というのも大きいです。
しぼり菜リズム(まとめ)
国際的に評価された版画家の棟方志功の大回顧展「生誕120年 棟方志功展 メイキング・オブ・ムナカタ」(国立近代美術館)に行きました。
棟方志功は、鬼気迫る特異な彫刻スタイルで知られていますが、彼の彫刻作業は感性に従って行われているだけではなく、彫るべきものが計算されておりそれに従って彫っていたようです。
棟方志功の主要な作品は「板画」で、自身の作品を「板画」と呼び、板の声と命を活かす独創的なアプローチを追求し生命力溢れるダイナミックな作風で国際的な評価を受けました。
彼は青森出身で、青森から「ゴッホになる」と上京しました。
東京での出会いや民藝運動の影響を受け、彼らとの交流により油絵から版画家に転身しオリジナリティ高い作品を生みだし、谷崎潤一郎の『鍵』の装幀なども手掛け人気を不動のものとします。
戦争中は富山へ疎開し、光徳寺の襖絵制作や筆の仕事を通じて民藝の「他力」思想を体現しました。
東京に戻った晩年は、故郷青森を回帰するような作品を制作するようになり、故郷で見たゴッホの「ひまわり」をオマージュした「大印度の花の柵」の花瓶の部分には自画像が描かれついに「ゴッホになった」という意図を感じさせます。
彼はデザイナーとしても活躍し、装幀やパッケージのなどデザインの仕事を通じて多くの人々に彼の作品を知らしめました。
棟方志功は数々の国際的な賞を受賞し、彼の版画は日用品にも広く使われ版画の認知度を高めました。
■大規模回顧展「生誕120年 棟方志功展 メイキング・オブ・ムナカタ」
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- 場所:東京国立近代美術館
- 会期:10月6日~12月3日