「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」(国立東京近代美術館)に行きました。
重要文化財
「重要文化財」は、漠然と国宝の次に価値のあるな文化財、選ばれしブランドだと思っていました。
正しくは
「重要文化財とは、建造物や美術工芸品、考古資料などの有形文化財のうち、日本の文化にとって重要だと国が指定したもの」
というで、その筋の専門家で構成された文部科学省の審議委員会で調査して、相応しいものがあればこれはどうですかとと文部科学大臣に答申し大臣が最終的に決定されたものです。
重要文化財に指定されると税制面で優遇されたり、維持費の補助が助成されます。
何より重要文化財ともなるとブランド的な価値が上がるので、観光資源になった展示会などでも人を集められるというメリットがあるのではないでしょうか。
東博の「国宝展」も人が多かったですが、今回の「重要文化財の秘密」も平日にも関わらず人が多くそのブランド力はさすがです。
「国宝」酔いしそうな贅沢な空間。東博150年の『国宝展』その1
「国宝」酔いしそうな贅沢な空間。東博150年の『国宝展』その2
ただ、年齢層は今回の方が高めでした。
展覧会では、近代美術館ということで明治時代以降に作られた重要文化財の美術・工芸うち68件のうち51点を集めたものが対象になります。
国立東京近代美術館(以下「東近美」)は、重要文化財を18点所蔵しています。
ちなみに明治時代以降に作られた美術・工芸で国宝に指定されているものはまだないそうです。
重要文化財の秘密
「重要文化財の秘密」は、常設で展示されているものなど過去の見た作品が多いのはいいのですが、作品が少なくてあれっもう終わりと何かあっけなかったです。
これは、作品保護の観点で展示替えをしているので、51点中私は40点くらいしか見れなかったからです。
見たい作品があれば展示期間を確認して行くべきなのですが、一度に全部見れればいいのになあと思いました。
でも、出展された作品から重要文化財の知られざる「秘密」を解き明かしていくというのがテーマの展覧会だったので、家に帰って写真に撮った説明文と写真撮影の禁止の作品の解説など調べてみるとあの作品は、そうだったのかとエピソードを知るにつれて案外、面白い展覧会だったと思いました。
(作品だけ見ている分には、いまいち物足りなさを感じていたんですけど)
「秘密」とは、今では、名作と見なされている作品の多くは発表当時、様々な物議を醸したり賛否両論などある「問題作」だったというような知られざる経緯を紹介しています。
そういう意味で、気になった作品をいくつかピックアップしました。
時代背景によって評価が変わる
美術史で、「時代背景によって、評価が変わる」というのがよくありますが、これもそのひとつです。
高橋由一の「鮭」(1877年頃)は、当時、あまりにも本物そっくりな描写が見世物的な扱いにされ、このようなそれまで無かったような斬新な絵は評価されにくかったのです。
でも、この作品は1967年に油絵として初めて指定された記念すべき「油絵」第1号の重要文化財なのです。
重要文化財に指定されたポイントが、「従来の日本の技法や材料では困難だった本物そっくりの描写が可能になった」というものです。
鮭という誰でも知っている身近なものを描いたのは、「こんなにも正確に描ける」「まるで、本物のようでしょ」というのを分かってもらうためだったとか。
教科書でお馴染みの黒田清輝の「湖畔」ですが、重要文化財に指定されたのは比較的最近の1999年で、子どもの頃の教科書で見たときはまだ指定されていなかったのだと意外でした。
明治時代の作品がまとめて指定された際にこの作品もいい線までいくも最終的には落選の憂き目に合います。
しかも、意識的に日本的な題材に西洋画の技法を融合させた試みを「弱々しく、甘ったるい劣作」とまで酷評されるというおまけ付き
紆余曲折を経て、この絵の価値は「油彩画の日本化を追求し、当時の日本画の因習を打破しようと試みたもの」というものに変わり、約30年経ってからの指定となりました。
工芸品では、例えば初代宮川香山の「褐釉蟹貼付台付鉢(かつゆうかにはりつきだいつきばち)」が指定されたのは2002年です。
明治時代では、このような工芸品は、日本趣味の装飾ということで欧米向けの土産物として、美術的価値は低かったのです。
時代とともに再評価が進み、技術的価値が見直されるようになりました。
高村光雲の「老猿」(1893年)も同様で木彫を代表する作品でしたが、長く西洋的な造形が優先されていた時代が続いたので1999年と指定が遅れました。
評価の「モノサシ」というのは、大きく異なり変化するものなのですね。
問題作?
当時の「問題作」だったものが、評価が逆転し重要文化財に指定されたものがあります。
今村柴紅のように古い日本画の常識を壊し新たな表現をしたのが、東南アジアの南国に取材した風景絵巻「熱国之巻」(1914年)です。
でも、当時としては、補色対比の効果を狙った派手な彩色は、伝統的な日本画の枠組みを超えて型破り過ぎて理解された訳ではありませんでした。
今村紫紅の作品は、後世に大きな影響を与え今では、日本画の近代化の道を切り開いた画家の一人とされています。
萬鉄五郎の「裸体美人」(1912年)も物議を醸し出した作品です。
美術学校時代の卒業制作の作品ですが、教授陣にはその先進性が理解されず、19人中16番目という低い順位をつけられたのです。
それはそうですよね、平面的な絵で、鼻、眉毛、髪の毛、輪郭線を協調させなんと脇毛まで描いている
タイトルに反して決して美人とはいえない不遜の表情の女性は、こちらを見下しいるようで寝ているようにも立っているようにも宙に浮いているようにも見え構図も不安定です。
「けしからん、こんなふざけた絵を描きやがって」と言う先生達の声が聞こえてきそうですね。
黒田清輝大先生の下で勉強しているのに、先生の教えを全く守っていないんですから。
萬と同じ美術学校で黒田清輝の教え子和田三蔵なんかは、「南風」ように理想的な人体の表現、3人の男性の三角形の構図と黒田先生の教えを忠実に守り優等生的な描き方をして萬とは対照的です。
和田三蔵が正統派で、萬鉄五郎は邪道みたいな話になりますが、萬っていう人は美術学校にトップで入って、マティスとか当時、最先端の西洋の画家なんかをよく勉強していて、実は、才もあるし努力家でもあったのです。
権威的なものへの反抗かあまりにも前衛的過ぎたこの作品は、やはり受け入れられなかったのでしょう。
そんな「裸体美人」は、2000年に重要文化財に指定され名誉挽回
この絵気持ち悪いって言う人いますが、雑草もルソーみたいに変な大きさだし真っ先に目に飛び込んでくるような強烈なインパクト、私は、嫌いではないのですね。
青木繁の洋画の手法を用いて古事記の「海幸山幸」を描いた「わだつみのいろこの宮」も発表当時の博覧会で賛否が分かれ不本意な結果になりました。
海に実際に潜って海底のイメージを得るなどした勝負作だけにショックを受けた青木は、審査員の黒田清輝を猛烈に批判しました。
青木繁の激しい物言いや素行の悪さは画壇でも評判が悪かったそうで、これが関係していたという説もあります。
しかし、時を経た1969年に「明治浪漫主義」の代表作として重要文化財に指定されたので、お空の上でほくそ笑んでいるいるか留飲を下げていることでしょう。
明治時代は、まだヌードを表現したものは風紀取締りの対象でした。
だから、「ゆあみ」(新海竹太郎)のように苦肉の策で、胸から太ももにかけて薄い手ぬぐいで覆い隠し「これは、裸体ではありません」アピールしていていました。
表現の自由が制限されていた中の工夫ですが、体に張り付いた薄衣や胸に手を当てた奥ゆかしい所作などがかえってほのかな色気を感じさせ作品の価値が上がっているような気がしました。
でも、プロポーションが理想化され過ぎてるかな。
今回の展覧欄会で気になったのが、近代以降の女性の作品で重要文化財に指定されたのは、上村松園だけでした。
これは、女流作家自体が少なかったのもありますが、女性のヒエラルキーが低かったというのもあるのかと感じました。
しぼり菜リズム(まとめ)
「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」(国立東京近代美術館)に行きました。
出展された作品から重要文化財の知られざる「秘密」を解き明かしていくというのがテーマの展覧会で、明治時代以降に作られた重要文化財の美術・工芸うち68件のうち51点を集めて展示しています。
重要文化財の中に今で名作と見なされている作品の多くは発表当時、様々な物議を醸したり賛否両論などある「問題作」だったというものがあります。
萬鉄五郎の「裸体美人」、青木繁「わだつみのいろこの宮」は、発表した頃は問題作、斬新過ぎて時代の尺度に合わなった高橋由一の「鮭」、黒田清輝の「湖畔」、今村柴紅の「熱国之巻」なんかがあります。
初代宮川香山の「褐釉蟹貼付台付鉢」のようなの本趣味の工芸品は、欧米への土産物として流通していたとのことです。
明治時代女性のヌードを題材にしたものは、風紀取締りの対象で表現の自由が制限されていた中で工夫した新海竹太郎「ゆあみ」のような彫刻がありました。