京都智積院の障壁画が六本木にやって来ました。
現在、智積院の宝物館がリニューアル中でその間、六本木のサントリー美術館『京都・智積院の名宝』で障壁画群を展示、京都まで足を運ばなくても智積院の名宝を見ることが出来ます。
『国宝展』で「松林図屏風」を見たばかりで再び、長谷川等伯の襖絵や長谷川派の障壁画を見たいと思い、美術館に行きました。
「国宝」酔いしそうな贅沢な空間。東博150年の『国宝展』その1
智積院
まず、智積院というお寺について
智積院は、弘法大師空海から始まり、成田山新勝寺、川崎大師、高尾山薬王院など全国に3000もの末寺を擁する真言宗智山派の総本山で、小堀遠州作の庭園と今回展示の収蔵庫の国宝が有名です。
(巨大規模のお寺ですね。)
一時期、智積院は、豊臣秀吉によって焼き払われて寺がない状態でしたが、江戸時代に幕府から隣接地にあった豊臣家ゆかりの禅寺、祥雲寺を与えられて吸収合併し復活しました。
元の祥雲禅寺は、秀吉の3歳で亡くなった息子鶴松の菩提寺でした。
「智積院展」の目玉である長谷川等伯と一派の絵は、祥雲禅寺が建てられた際に二階建ての本堂や客殿などの内部を飾るために描かれたものです。
客殿の全焼、金堂、講堂、大屋根が数度の火災より消失していますが、障壁画の大部分が助け出され現存しています。
智積院では、中世から近代に至る多彩な名宝の数々が伝わり、宗派を超えた僧や朝廷、幕府からの寄進物を大切に扱ってきました。
運よく火災を免れたこと、文化芸術の護り手である智積院で保護があったから楓の美しい彩色が残るという状態のよい障壁画群に私達が出会うことが出来るのです。
長谷川等伯と狩野派
長谷川等伯は、1610年石川県で生まれで33歳で京都に上りました。
等伯は、京で千利休と知り合いサクセスストーリーを歩むようになります。
千利休とつながったことで、豊臣秀吉の庇護を受けるようになり祥雲禅寺の障壁画という後世に残る大仕事を受けることになりました。
丹波の農家の出だった丸山応挙が、京都で三井家をはじめとする富裕な町人層のスポンサーを得てトップの座に上がったのとなんとなく似ていますね。
丸山応挙は、つまらない?『松雪図(まつゆきず)』は、応挙でなければ描けなかった凄い絵
ただ、それは順調に進んだストーリではなく、等伯のライバルである狩野永徳との絡みもあります。
京で等伯が活躍した時代は、織田信長や秀吉に寵愛を受けた狩野永徳率いる「狩野派」が画壇の中心勢力で、お互い単なるライバルというよりバトル感満載の確執さえあったようです。
室町時代から400年続いた狩野派の血筋を受け継ぐサラブレットの永徳は、地方出身ながら出世街道を歩くようになった等伯を妬んでいたのでしょう。
伝統に縛りのない自由な表現も羨ましいと感じたに違いありません。
秀吉の目に入るようになった等伯に脅威に感じ、あらゆる手を使って等伯の邪魔をしたといわれています。
しかし、永徳が47歳で突然死してしまい、等伯に秀吉から祥雲寺の障壁画を描くチャンスが回ってきました。
さらに、永徳の息子の狩野光信に才能がなかったのに比べ、等伯の息子、久蔵は父親も認める才能の持ち主で狩野派に取って代わり、この千載一遇の機会を得ることが出来たのです。
長谷川等伯の楓図
絢爛豪華で、日本のルネサンスといわれる16世紀の「桃山時代」に盛んに描かれた屛風絵
城郭や書院や方丈、城郭や武家屋敷の大広間には必ずあった屛風や襖に時勢に乗った絵師達が競って描き、「障屏画」は芸術ジャンルのひとつになりました。
(ちなみに「襖絵」は襖に描かれた絵画で、「障屏画」は、襖を含み、壁、衝立、屏風などに描かれた室内装飾絵画のことです。)
この時代の権力者が好んだのは、狩野派が得意とした金箔を全体に押し碧色で濃く彩色した「金碧(きんぺき)障壁画」というもので、大名の権力と財力の象徴だったり、政治的な交渉の贈答品としても活用されました。
そんな障壁画群の1つである、等伯の「楓図」です。
中央に楓の太い幹を配した大胆な構図で、金だけでなく群青や緑青などの高価な顔料も多用され豪華に仕上げられたのは、秀吉の好みに応えたからでしょう。
永徳から学んだ様式を用いているからか、同じく大樹をメインに据えた永徳の「檜図屛風」とそっくりですが雰囲気は異なります。
楓の葉は、赤や茶色、緑色と様々な色が使われ、菊や鶏頭、萩の草花もどこか繊細で優しく、どこか控えめだけど華やかなこの絵は、『国宝展』にもあった豪壮な「檜図屛風」より甲乙つけがたいけど好みかもしれません。
自然の営みがありのままに描かれていて、耳を澄ませば木々の音や虫の音などが聞こえてきそうです。
それにしても「楓図」は、墨と余白で描いた「松林図屏風」とは趣が異なり等伯もこんな色彩豊かで写実的な絵を描くのかと思いました。
長谷川等伯の屏風絵と親子
これは、等伯の息子の久蔵が描いた障壁画「桜図」です。
太い幹の縦横無尽に広げた枝に咲き誇る白い桜の花が印象的で、「白」が目に焼きつくよう描いたのは秀吉の亡き子、鶴松を哀悼するためかと思いました。
八重桜の白い花が印象的なのは、実物よりも大きく正面を向き、花びらはふっくら見えるよう一つ一つ貝殻が原料の顔料を厚く盛り華やかにしているからです。
よく見ると下の方には、シャガ、たんぽぽ、ツツジなども咲いてい細やかです。
温もりさえ感じさせるこの絵を描いた久蔵は、絵の完成後、急逝してしまいます。
死因は分かっていませんが、危機感を抱いた狩野派による暗殺説や跡目争いを避けて自害したという説が残っています。
才能ある久蔵に跡を継がせ、長谷川派の地位を確たるものにしようとしていた等伯にとって最愛の息子を失った悲しみは如何ばかりかと思います。
今回の展示で、絵師として順調だった等伯の私生活の悲しい過出来事や狩野派との確執など絵だけでは伺い知れない人間等伯の一面を垣間見ることが出来ました。
でも、これだけでは終わらないのが等伯の凄いところ。
等伯は、日本画史上最高傑作といわれる「松林図屛風」を息子の死という喪失感を乗り越えて描き、もしかしたら、最愛の家族の死があったから「松林図屛風」が描けたのかもしれないなどと思いました。
しぼり菜リズム(まとめ)
京都智積院の障壁画の展示『京都・智積院の名宝』(サントリー美術館)を見に行きました。
智積院は、弘法大師空海から始まり、全国に3000もの末寺を擁する真言宗智山派の総本山で、小堀遠州作の庭園と今回展示の収蔵庫の国宝が有名な豊臣秀吉ゆかりのお寺です。
「智積院展」の長谷川等伯と一派の絵は、祥雲禅寺が建てられた際に二階建ての本堂や客殿などの内部を飾るために描かれたものです。
長谷川等伯は、京都で千利休と知り合い豊臣秀吉の庇護を受け祥雲禅寺(後の智積院)の障壁画を任されます。
京で等伯が活躍した時代は、織田信長や秀吉に寵愛を受けた狩野永徳率いる「狩野派」が画壇の中心勢力で、お互い単ライバル視していました。
サラブレットの狩野永徳は、秀吉の目に入るようになった等伯に脅威に感じ、あらゆる手を使って等伯の邪魔をしたといわれていますが、永徳が突然死して秀吉から祥雲寺の障壁画を描くチャンスが回ってきました。。
日本のルネサンスといわれる「桃山時代」に盛んに描かれた「障屏画」は芸術ジャンルのひとつとなり狩野派など時勢に乗った絵師達が競って描きました。
等伯の「楓図」も、中央に楓の太い幹を配した大胆な構図で、金だけでなく高価な顔料も多用され豪華に仕上げられましたが、秋の草花が繊細で優しく、華やかだけど控えめな印象があります。
等伯の息子の久蔵が描いた「桜図」は、顔料を厚く盛り白い桜の花が印象的です。
桜図を描いた久蔵は、絵の完成後、急逝してしまい才能ある久蔵に跡を継がせ、長谷川派の地位を確たるものにしようとしていた等伯にとって最愛の息子を失った悲しみは如何ばかりかと思います。
絵師として順調だった等伯の私生活の悲しい過出来事や狩野派との確執など絵だけでは伺い知れない等伯の人生を知り人間味を覚えました。
■『京都・智積院の名宝』
- 場所:サントリー美術館
- 会期:2022年11月30日(水)〜2023年1月22日(日)