享年89歳、母が亡くなくなりました
闘病中だった母が亡くなり葬儀も済ませませた。
療養病棟に転院して2週間後、急に体調が悪化し亡くなり、亡くなった原因は分からず死因は、「老衰」ということでした。
昨年の8月に脳梗塞で倒れて、この日は、いつか来るのだろうと覚悟はしていましたがいざ現実になると、とても寂しいものです。
身近な人が亡くなくなるとよく「夢枕に立つ」といいますが、亡くなってから母は私の元をまだ一度も訪れていません。
ただ、生存中、急性期病院入院中に3度、私の前に現れました。
「病院にいても退屈だから(無断で)来てしまった。」って3回ともひょっこりと訪ねて来たのです。
母は、ひょっこりと現れるようなタイプではなく、しかも寝たきりの母が自分の足で歩きて来たのにはびっくりしました。
我が家の玄関に立つ母の背丈は、実際の母よりも小さく少し若くなっていて…そんな母の姿が脳裏に焼き付いています。
でも、これは夢の中の出来事で、その頃、コロナで母と面会も出来ず母の体の状態が分からず、こうであって欲しい(自分で歩ける)という願望が夢に投影されていたのだと思います。
子ども達のために生きてきた母
実際の母は、麻痺側の手足を動かせず寝たきりで、顎が外れて胃ろうになったりして不自由な体で辛そうでした。
だから亡くなったことで、痛みや苦しみから解放されたのだとホッとした面もあります。
でも、ムードメーカーで朗らかな母の存在は大きく、そんな存在感のある母が亡くなってひとつの時代が終わったように感じ喪失感も大きいです。
自分のことより、子どもの心配ばかりして子ども優先に生きてきた母
3人の子ども達のために生きてきた母の姿しか思い起こせません。
危篤の知らせを受け、私達兄弟3人が駆け付けそれぞれ対面して間もなく母は、息を引き取りました。
旅立つ前に母は、私達が来るのを待っていてくれたのです。
子ども思いの母らしい最期です。
思えば、私が大人になってもリンゴの皮を剥いて食べやすように一切れづつ切ってくれるのは当たり前でした。
リンゴをよく摺り下ろしてくれました。
ミカンなど柑橘類は、皮を剥いて必ず中の薄い袋から出してすぐそのまま食べらるようにしてくれていました。
小学校の頃、爪の検査というのがあって、それを忘れて爪が長いまま登校すると爪切りを持って登校班の集合場所まで追い掛けて来て爪を切ってくれたこともありました。
文房具、体操着、教科書
持ち物には全部名前を入れますが、ハサミ、糸など裁縫箱の中の物も1つ1つ全部名前を入れ、待ち針1本1本まで頭(平らなやつ)の部分にも名字の頭文字を入れるほどの念の入れようでした。
このように過保護だけど母にやってもらったことは数知れず。
人生、母には(与えられるだけ)与えられて借りをいっぱい作っているのです。
私は、母に何回りんごの皮を剥いてあげたのか。
何の恩返しもしていないし、まだ借りを返していない。
後悔もある
長年の地域の育成の功労を区から表彰されすごく喜んでいたけど、「おめでとう」の一言も言ってあげられなかった。
米寿のお祝いもしていない。
何年も前から頼まれていた冷蔵庫の掃除をやらなかった。
倒れる少し前に朝の体操の仲間に体調がよくないと言っていたみたいで、もっと頻繁に電話をして気づいてあげればよかった。
倒れる前、たまたま実家の近くを通ったときコロナを言い訳に寄らなかったけど、あのとき元気な母を訪ねておけばよかった。
生きている間、手も握ってあげられなかった。
私達にたくさんの愛情を注いでくれた母に「今まで、ありがとう」と感謝を伝えなかったことが悔やまれます。
母は、生き続けている
亡くなった母にはしてもらったことばかりの人生だったけど、たった1つだけ親孝行が出来たかなあと思います。
私が病気になり、もしかしたら、母より先に死ぬかもしれないと思っていたことがありました。
でも、母が亡くなった今、私は、母より長く生きていてこのことだけは、唯一の親孝行なのです。
子どもの頃から「母の死」を恐れてそんな日は、永遠に来ないで欲しい(来ないだろう)と思っていました。
ずっと母の死というものは考えたくなくて封印していたような気がします。
でも、母が亡くなって少し日数が経った今、母の死を受け入れるために心の支えにしているセリフや文章を思い浮かべています。
それは、
「死ぬのは縛られていた魂が体から解放されることで、完全にその人がなくなる訳じゃない。」
以前読んだ『西の魔女が死んだ』(梨木里香著)の主人公まいのおばあちゃんのセリフです。
また、最近読んだ文章で印象に残っているのは、「その人が亡くなってもその人を思う誰かがいれば、その人は生き続けている」というもの。
だから、私が母を思っていれば、母は生き続けているのです。