『夜と霧』
第二次大戦中にナチスのホロコーストによって収容所へと送られ家族と私財の全てを取り上げられ、強制収容所で過酷な労役を強いられたユダヤ系精神科医のヴィクトール・E・フランクル
アドラーやフロイトに師事した心理学者でもあります。
彼は、明日をも知れぬ極限状況の生活を2年以上送った壮絶な経験を持ちます。
その時の体験を記した『夜と霧』(訳 霜山徳爾、みすず書房)を1年前に読みました。
『夜と霧』は『アンネの日記』と並ぶ重要な史料ですが、『アンネの日記』と違うのは、フランクルが生き延びて、「精神科医」の観点から収容所というものを本に残していることです。
『夜と霧』は、収容所で何が起きていたかという単に強制収容者の記録ではなく、「生と死」についての普遍的なテーマが書かれているところが名著として読み継がれています。
「生きる意味とは何か」というところにも踏み込んでいます。
10年ほど前に読んだときは、観念的で分かりにくく感じたので、がんを患って「生と死」を意識したことにより改めて再読しました。
この本で、一番知りたかったことは、強制収容所という肉体的にも精神的にも極限の中で、どうしてフランクルは生き抜きことが出来たのかということです。
それは、生きる意味をどう見出すか。
どん底の中で、どう生きるか。
本には、私達が生きていく上でヒントになることが3つの実体験から書かれていたので紹介します。
①明確な未来を見据える
まず、フランクルは、過酷な収容所生活で、生き延びることが出来たのは、明確な未来を見据えることが出来たからとズバリ書いてありました。
極限状態では、「未来を考える」ことの重要性を説いています。
しかし、未来を考えることには2つあり
一つは、未来への楽観的な期待です。
でも、この安易な楽観的なイメージを頼ることは、リスクがあります。
期待通リにならかった場合には、落胆し希望が絶望に変わってしまうからです。
収容所でも、クリスマスから年明けに家に帰れるという期待を持った多くの人達が、それが叶わず落胆し(肉体の免疫が落ちたであろう)亡くなってしまったと書いています。
これは、「クリスマスには、きっと家に帰れる。(であろう)」という未来への受け身の願望で、実際には、自分で変えようもないものだからです。
もう一つは、自分で考えて、「自発性」を持って未来へ「目的意識」を持つというものです。
それは、「人生に期待をする。」というのではなく、「人生から期待されていることに全力で応えていく生き方をする。」ということになります。
「人生から期待されていること」
言い換えれば、「人生が、あなたに求めているものは何かを考える。」ということです。
例えば、妻や子どもを残して来た人は、自分が生きて帰ることで、愛する人達の願いに応えることが出来る。というようなことです。
フランクル自身は、自分の生命が助かったら、この経験と人間の真実を心理学的、学術的に考察し語り継ぐ使命があると収容所で論文を書くことが生きる力になり心の支えになりました。
このように明確な未来があれば上手くいかなかったときでも落胆はしないといっているように、フランクルは私物を所持出来ない環境下でも、小さな紙片を隠し持ち、細かい字で記録を取り続け原稿を書きました。
連行される前にコートの裏地に縫い付け隠し持ってい原稿も身ぐるみ剥がされ奪い取られてしまいましたが、その失われた原稿の再現作業も使命とし生き延びるモチベーションにしました。
このように今苦しくても成功しなくても目的意識持つことで、未来を見据えることが出来ます。
明確な未来を描くことで、生きる力を得ることが出来るのです。
このようなことから総じて「生きる意味」は、「私達が生きることに何かを期待する。」のではなく、逆に「生きることが、私達に何を期待している。だから、未来で自分を待っているものは何かを考え、その義務を果たす。」ことで生まれるというものです。
未来で自分を待っているものとは、自分にしか出来ない仕事だったり、待っている愛する人の存在だったりするでしょう。
そのために今すべきことが必ずあるというのです。
自分のしていることや人生そのものに「意味がある」と感じられるならば、自分の置かれた状況がどのようなものであっても「生きる力」が湧いてくるとフランクルが身をもって証明した高度なメッセージなのです。
➁精神の自由を自覚する
これは、最初に読んだときはよく分かりませんでした。
今もって、理解していないところがありますが…。
「繊細な被収容者の方が、粗野な人々よりも収容所生活によく耐えたという逆説がある。」とフランクルが書いていて、一瞬、「ん?」と思いました。
この「繊細な人」というのは、「精神の自由」を失わない人、人間として決断出来る人という意味でした。
ある人は死体から、自分のものより少しだけマシな靴を奪いましたが、別の人は、自分が飢えている中、より弱っている人に、自らのわずかなパンを与えたといいます。
どんな環境下であってもモラルや精神性を失わわず人間として踏み止まる人がいたのです。
これを見て、与えれた環境でいかに振舞うか人間としての決断を個人が決められる。
どんな環境でも環境は変えられなくても「心の在りよう」を自分自身で決められることが出来ると考えたのです。
困難に対する態度を決めるのは、まさに私達自身であり、他の誰でもありません。
人は、環境によってすべてを決定されてしまう訳ではない。
どんな状況にあっても、その状況に対してどのように振る舞うかという「精神の自由」だけは、誰にも奪うことが出来ないのです。
現実の過酷な状況に苦しみながらも、自分の信じるものや信念を見失わない「繊細な人」は、収容所でも生き抜くことが出来たのです。
そんな人は、自分を肯定し今の自分に価値を見出していたのだと思いました。
そこから、人は、切実に「生きる意味」を求める存在であり、自分のしていることや人生そのものに「意味がある」と感じられるならば、自分の置かれた状況がどのようなものであっても「生きる力」を失わずどんな困難にも打ち勝てるのだと思いました。
逆に内的な拠り所をもたない粗野な人は、自己放棄してしまい収容所生活に耐えられなかったのだと思いました。
③芸術や自然を愛でる
これは、比較的分かりやすかったです。
素晴らしい音楽を聴くことや大自然に触れること、人を愛すること、ユーモアに触れ内面を豊かにすることで、極限状態でも恐怖を和らげ、正常な精神状態を保つことは可能だということです。
夕方、労働で死ぬほど疲れていても、寒かろうが、点呼場に出て沈みゆく太陽を見逃させまいと呼ぶ仲間と西の地平線上に血のように輝く太陽を見て、ほんの一瞬でも息を飲むような自然の美しさに触れることがありました。
それを見て、彼らは辛い生活を一瞬でも忘れることが出来たとフランクルは言っています。
芸術も然り、心が潤います。
それに接したときは、人生に意味が生じる瞬間でもあります。
どんなときにも人生には意味がある。
意味があるから、今を生きようとするのです。
内面が充実すれば、自分や身近な人の喜怒哀楽を大切に出来、粗暴な振る舞いや闇の部分が出てしまうことにもブレーキが掛かるのだと思います。
しぼり菜リズム(まとめ)
ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』から読み解く「生きる意味」と「困難の中でどう生きる」か、収容所での実体験から得た3つの視点です。
①明確な未来を見据える
過酷な収容所生活で、生き延びることが出来たのは、自分で考えて、「自発性」を持って未来へ「目的意識」を持つという明確な未来を見据えたからです。
それは、「人生に期待をする。」というのではなく、「人生から期待されていることに全力で応えていく生き方をする。」ということ。
自分が生きて帰ることで、愛する人達の願いに応えることが出来ることやフランクルのように収容所での出来事を考察し論文を書いて出版することなどです。
「生きる意味」は、「未来で自分を待っているものは何かを考え、その義務を果たす。」ことで生まれる。
未来で自分を待っているものとは、自分にしか出来ない仕事だったり、待っている愛する人の存在だったりし、そのために今すべきことが必ずあり、それが生きるモチベーションになります。
➁精神の自由を自覚する
与えれた環境でいかに振舞うか人間としての決断を個人が決められる。
どんな環境でも環境は変えられなくても「心の在りよう」を自分自身で決められることが出来ると考えました。
過酷な状況にあっても、善意ある行動をするなど「精神の自由」だけは、誰にも奪うことが出来ない。
精神の自由を持った人は、自分を肯定し今の自分に価値を見出していくことが出来ます。
③自然や芸術を愛でる
芸術や自然に触れること、人を愛すること、ユーモアに触れ内面を豊かにすることで、極限状態でも恐怖を和らげ、正常な精神状態を保つことは可能になります。
芸術や自然に接したときは、人生に意味が生じ、意味があるから、今を生きようとするのです。