ピカソ(『イスラエル博物館所蔵ピカソ ― ひらめきの原点 ―』パナソニック汐留美術館)と北斎(『大英博物館 北斎―国内の肉筆画の名品とともに―』サントリー美術館)に行って、ともに長生きした晩年の作品を見た感想です。
生涯現役
パブロ・ピカソは、長寿で92歳まで生きました。
だから、生涯におよそ1万3500点の油絵と素描、10万点の版画、3万4000点の挿絵、300点の彫刻と陶器という気の遠くなるほど膨大な作品を残しています。
展覧会を見て、長生きした分、「◯◯の時代」と呼ばるようにこれが同じ作家かというくらい作風がどんどん変化していっています。
ピカソが凄いのは、晩年も年齢に関係なく様々な作風に挑み進化し続けたことです。
80代に、87枚のエッチングを残すという晩年の脅威の作品数。
最後の伴侶である45歳年下のジャクリーヌ・ロックや闘牛を題材としたリノカットという木よりも加工が簡単な合成樹脂材を使った多彩な版画の技法を追求。
86歳で取り組んだた347枚の版画の連作「347シリーズ」を7ヶ月で製作。
短期間でこれだけ多くの作品を制作した集中力や情熱も凄いのですが、このシリーズ、大胆な愛の営みを描き、エロティック描写もたくさんあって老いても盛んなのです。
これを「不能老人のポルノ」などと当時の批評家にバッシングされたそうですが、ピカソは意に介さなかったそうです。
ピカソの最晩年の作風は、自身を投影した神話や闘牛、女性達ののポートレートなどピカソが愛したモチーフを全て盛り込み彼がそれまで経てきたスタイルの総括的なものです。
それでも油彩、水彩、クレヨンなど多様な画材を使っていてそのカラフルで激しい絵は、最後のエネルギーを振り絞って描いているように思えました。
亡くなる3年前の黒板にチョークでいたずら書きをしたようなドローイング(デッサン)「横たわる裸婦と髭のある頭部」もどこか挑戦的で時代を先取りしています。
ピカソは、はるか先を見据えて(あまりにも先を行き過ぎて)、没後50年近く経った今も私には理解しにくいところもあります。
ピカソは、どの時代もこれがピークというのがなく死ぬまで、画家として革新的な可能性を模索した生涯現役の作家でした。
枯れるとか達観とか老境に入っても革新的で旺盛な感性は衰えませんが、亡くなる1年前には、一連の自画像を手掛けていて、その頃はもしかしたら死を予測していたのかもしれないと思いました。
葛飾北斎
晩年、自らを「画狂老人(がきょうろうじん)」と呼んだ葛飾北斎の画力も老いを知りませんでした。
北斎は、約70年に及ぶ作画活動で3万点を超える作品を発表し、あらゆる技法や様式を吸収し森羅万象を描くも、91歳で亡くなるときに「もう5年生きることが出来たなら、本物の画工になれたと」と本人は、描くことは志半ばだったようです。
70歳までに描いたものには、ろくな絵はないって!?
73歳になって、鳥やけだもの虫や魚の本当の形や草木の生きている姿が分かってきた。
80歳で進歩し、100歳になれば思い通りに描けるだろうし、110歳になったらどんなものも生きているように描けるようになろう。
まさに画狂老人!
そう言っていた北斎の長い画家生活で、実際、ブレイクしたのが70代
74歳で「冨嶽三十六景」を完成させ北斎の円熟期は、還暦を迎えた60歳から90歳で亡くなるまでの30年間だったと展覧会を見ても感じました。
72歳の日本全国の有名な滝を描いたシリーズ「諸国瀧廻り」を見ると真っすぐ落下する滝、蛇行する滝と流れ落ちる水の表情を巧みに描き分けています。
流れ落ちる直前の水と滝として落ちる水、落ちた後の水と同じ川の水でも別の表現で描き画法の研究を怠りません。
ポスターのようなデザインや構図も素晴らしく、発想の柔軟さに年齢を感じさせません。
「冨嶽三十六景」の「神奈川沖浪裏」(1831〜35年)は、 70〜74歳頃の作品です。
ベロ藍(プルシャンブルー)とよばれる色が美しく、波頭をかぎ爪のように表現し技の修練に余念がありません。
のっぺりとした波が、年を経るごとにしぶきや波頭の表現がダイナミックになっています。
版画より直接描くことで色彩がはっきりとした「肉筆画」は、88歳が最も多くビビッドな色彩に感性の若さを見ることが出来ます。
力強い「弘法大師修法図」は、晩年期の作品では最大級で、80代後半になっても気力と体力に満ち魂の力強さがあります。
80代になっても猫1匹も描けないと涙をこぼし、「人物を書くには骨格を知らなければ真実とは成り得ない。」と接骨家もとに弟子入りし接骨術や筋骨の解剖学を極め、人体を描く方法を習得しました。
水上と水中の様子を対比的に描き分けている名作「流水に鴨図」は88歳の作品で、最晩年になっても高みを目指し続けていたことが分かります。
肉筆画を見ると、超人的な北斎も90近くもなれば肉体的な老いがあったでしょうが、肉体的な制約を巧みな筆さばきで補う実力があるのも北斎だったと思うのです。
長寿の芸術家
ピカソと北斎の晩年の活躍を見て、二人がどうして長寿だったの考えました。
共に絵を描たり作品を作ることにより高みを目指すという生きる明確な目的があったからだと思いました。
これで、終いというのがなく、人生において常にやるべきこと使命があったのです。
また、自分の好きなことを極めてストレスが少ないのと画家という職業が、「生涯現役」でいられたというのが長寿の秘訣だったと思います。
前提に才能があり、それを生かして好きなことに没頭出来たことです。
最晩年まで、革新的だったピカソ、画技の追求を続けた北斎、あくなき探求心が、巨匠二人の生き延びる力を助けたのだと思いました。
しぼり菜リズム(まとめ)
ピカソ(『イスラエル博物館所蔵ピカソ ― ひらめきの原点 ―』パナソニック汐留美術館)と北斎(『大英博物館 北斎―国内の肉筆画の名品とともに―』サントリー美術館)の晩年の作品を見た感想です。
ピカソは、晩年も年齢に関係なく様々な作風に挑み進化し続けました。
80代に、87枚のエッチングを残し、86歳で取り組んだ大胆な愛の営みやエロティック描写もたくさんある347枚の版画の連作「347シリーズ」を7ヶ月で製作。
晩年の多様な画材を使ってたカラフルで激しい絵は、最後のエネルギーを振り絞って描いているように思えました。
亡くなる3年前の「横たわる裸婦と髭のある頭部」も挑戦的で時代を先取りしています。
ピカソは、どの時代もこれがピークというのがなく死ぬまで、画家として可能性を模索し続けた生涯現役の作家でした。
晩年、自らを「画狂老人(がきょうろうじん)」と呼んだ晩年が円熟期だった北斎の画力も老いを知りませんでした。
74歳で「冨嶽三十六景」を完成させ、88歳が最も多い肉筆画は、ビビッドな色彩に感性の若さを見ることが出来ます。
80代後半の力強い「弘法大師修法図」、水上と水中の様子を対比的に描き分けている名作「流水に鴨図」は88歳の作品です。
自分はまだまだと80代になって接骨家もとに弟子入りし、人体を描く方法を習得し最晩年になっても常に高みを目指し続けていました。
ピカソと北斎の晩年の活躍を見て、共に絵を描たり作品を作ることにより高みを目指すという生きる明確な目的があり、自分の好きなことを極めてストレスが少ない画家という職業柄、生涯現役でいることが、長寿の秘訣だったと思います。
最晩年まで、常に革新的なピカソ、画技の追求を続けた北斎、あくなき探求心が、巨匠二人のの生き延びる力を助けたのだと思いました。