家の玄関の床モザイク画「猛犬注意」(1世紀 ポンペイ出土)
(歯を剝き出した犬の絵で、訪問者に番犬がいることを警告。壁ではなく、床にモザイクを施したのが面白いですね。)
ポンペイ展
上野の国立博物館に『ポンペイ展』に行きました。
紀元前79年、イタリアのナポリ近郊のヴェスヴィオ山で起きた大噴火で、「地中に消えた古代都市」がポンペイです。
現在まで続いている発掘調査で見つかった遺物の一部(ナポリ国立考古学博物館蔵)をこの展覧会で展示しています。
ポンペイは、発掘調査が行われる18世紀まで火山灰に埋まっていたため、古代遺跡の中でも屈指の保存状態のよさと規模を誇ります。
ポンペイは、「生きた都市」さながら「考古学の奇跡」なのです。
「タイムカプセル」を開けた2000年前のポンペイは、どんな姿なのでしょうか。
2000年前のポンペイ
2000年前のポンペイは、人口1万人ほどで、ワインやオリーブオイルの生産が盛んで、劇場や闘技場、浴場、水汲み場など、住人が集う公共施設がありました。
その頃の日本は、「弥生時代」で東北は、縄文時代。
「卑弥呼」もまだ生まれていないです。
日本には、「インフラ」という概念さえない時代、ポンペイは、東西南北に石畳みの大通りがあり、水道もあるなど、インフラが整備され既に都市を形成していました。
市民は、製造業、建設業、小売りや飲食業、サービス業、農産物・水産物の加工業など様々な職業に従事し600以上の店や工房が発見されました。
露天商、行商人もいて、1次産業ばかりでなく、2次産業、3次産業まであり、肉体労働者ばかりではなく「ホワイトカラー」のような職種の市民もいてまさに近代都市です。
庶民の家には、台所がなかったので、食事は、食堂で食べたり、ケイタリング的なもので賄って自給的ではありませんでした。
パンが主食だったので、ポンペイ全体で、パン屋も30件ほどあったそうです。
医者は、訪問医療みたいな感じで行い、傷病の処置や外科手術に用いられた医療器具もあり「医療水準」もかなり高ったです。
当時の日本からみたら全てが、近未来的ですね。
芸術を愛する文化
ポンペイは、高度な都市文化があり、教養を養い、「芸術」を愛でるという豊かな市民生活が存在していました。
特にポンペイの上流階級である裕福な資産家の生活が、すごいです。
競ってギリシャ文化に精通した教養人であることを示そうと邸宅の家財や装飾に贅を凝らし、使用人を雇い台所で調理をし、宴席では、豪華な食器が並びました。
ポンペイ随一の裕福な家は、まるで美術館です。
驚くほど緻密で洗練されたモザイク画やフレスコ画、大理石やブロンズの像の美術、工芸品が家のあちこちにありギャラリーと化しています。
欠損やひび割れがあるもののもあるも、ほとんどは、破壊されず火山灰に埋まったのか保存状態がとてもいいです。
中でも有名なのが、モザイク画の最高傑作、ファウヌスの家の「アレクサンドロス大王のモザイク」です。
でも、オリジナルはなく、レプリカでもなくて、絵があった談話室を再現した空間にモザイク画の映像を流しているだけでした。
本物は、ナポリ国立考古学博物館にあり行って本物を見たくなりました。
このモザイク画は、横約5.8m、縦約3.1mの巨大な作品で、これだけ大きなものを飾っている家なんて、よほどの大邸宅だったのだと思いました。
我町より少ない人口1万人の町で、どのようにして富を得て贅を凝らした芸術品を所有することが出来たのか、富の集中があったのか知りたくなりました。
奴隷や女性
この展覧会で、一番、興味を持ったのが奴隷や女性の地位や身分です。
この時代に身分や貧富の差があり「奴隷制度」がありました。
奴隷の「拘束器具」などあって、厳格な身分制度が確立されているのかと思いきや主人の遺言や金を払い奴隷身分から解放され、解放されたから生まれた子には、十全な市民権を与えられました。
中には、金融業で財を成した解放奴隷の一家もいて、裕福層まで社会的上昇を果たした者もいました。
家父長制のローマ帝国の植民地だったポンペイは、「女性の地位」も低かったです。
ただ、低い出自だった女性が、浴場や食堂を経営、家を賃貸して不動産業でビジネスの手腕を発揮して身を立てた女性もいて、商才があれば財を成すことも出来ました。
上の写真は、不動産業で成功した女性が、都心の一等地に豪邸を所有し、その家を賃貸に出したときの広告です。
多くの奴隷がいて貧富の激しい格差社会であったが、意外と階層は、固定されたものではなく、女性も才覚があれば町の有力者にのし上がることが出来、古代社会としては、流動性が高かったのです。
タイムカプセル
生き埋めとなった人の型で作った石膏の人体像や火砕流で固まっ金属片、火山灰に埋もれて固まった鍋などの生々しい惨状を残す展示品があり、当時の市民にとって大噴火は、「災難」であり悲劇でありました。
しかし、ヴェスヴィオが噴火しておらず、ポンペイが火山灰に埋もれなかったら、家や建物は、建て替えられ街の様子はどんどんと変わっていったでしょう。
ポンペイは、今日の世界に進化して、古代ポンペイは、2000年以上後に私達に見る機会を与えませんでした。
タイムマシンに乗らなくて、「タイムカプセル」を開けたかのような2000年前の遺跡をそのまま見ることが出来るのは、街がそっくり火山灰に埋もれたからです。
しぼり菜リズム(まとめ)
国立博物館の『ポンペイ展』
2000年前にヴェスヴィオ山が噴火して、イタリア南部のポンペイが街ごと火山灰に埋もれ消滅
発掘調査で、出土した遺跡は保存状態がよくほぼ当時のままです。
ポンペイの街は、インフラが整い、医療水準も高く、肉体労働者ばかりではなくホワイトカラーのような職種の市民もいた近代都市でした。
裕福層は、教養と文化的素養を声高に主張し、美術、工芸品で邸宅を装飾し、「アレクサンドロス大王のモザイク」のように後世に残る芸術価値の高いものも多くありました。
ポンペイは、奴隷がいて貧富の激しい格差社会であったが、解放奴隷など階層は、固定されたものではなく、女性も才覚があればのし上がることが出来、古代社会としては、流動性が高かったのです。