NHK朝の連続テレビ小説『スカーレット』が、終了しました。
10年ぶりの朝ドラ『スカーレット』を見た雑感「その2」です。
武志の死が、「ナレ死」だったこと
『スカーレット』は、どう終わるのか興味がありました。
武志は白血病を患っており、最終話で亡くなるのか、助かるのか、そのシーンがどのように描かれるかです。
「武志は、26歳の誕生日を前にして旅立ちました」
と最大の関心事は、最終回で武志の死を「ナレ死」で終わらせました。
(「ナレ死」は登場人物の死がナレーションのみで語られることです。)
「ナレ死」は、武志の最期の表現として『スカーレット』らしい手法だと思いました。
武志の死という重要なシーンを飛ばしてしまっているのだけど、決して、後味が悪くありませんでした。
それは、続けて映し出された傘の滴がヒントになった武志の作品で、この作品によって武志が「生きた証」を見ることが出来たことと
その後に主治医が語る亡くなる直前の武志の「握り返した手が、力強かった」エピソードや武志が八郎に託した「お母ちゃん、産んでくれてありとう」の回想を語ることで、武志の死がリアルになったからです。
「ナレ死」が、決して軽くならなかったは、これまでに丁寧に描いてきた日常の積み重ねもあったからなのだと思います。
このように特別なシーンは何もなく、最愛の息子の死を扱いながら大げさな演出も一切なかったので、逆に静かで、余韻を残すエンディングになったのではないかと思っています。
『スカーレット』のテーマは、「いつもと変わらない1日は、特別な1日」
最後の最後まで、『スカーレット』は日常を描き続けました。
ラストの喜美子が一人、穴窯の燃えさかる炎に薪をくべ、変わらずに陶芸に励む姿は、武志のことを胸の中にしっかりと留め、喪失の後にも続く生活を生き続けることがいかに尊いのだとのメッセージに見えました。
武志が願った「いつもと変わらない1日は、特別な1日」が喜美子にとって、作陶であって変わらない日常なのです。
最愛の人がいなくなってもこの世界は、終わりではない。
当たり前の日常は、これからも続き、それがかけがいのないものだというのが亡くなった武志のメッセージであり『スカーレット』の「テーマ」なのです。
だから主人公の陶芸家としての成功は重要ではなく「どう生きるか」が、重要でなのです。
それは、「変わらない毎日」を生きることがいかに幸せなことなんだと昨今の「コロナ騒動」で痛切に感じていることにも繋がります。
はちさん、家庭菜園照子とおもしろおじさん信作、直子に百合子にサニーのお二人、真奈ちゃん、武志のお友達。ちや子さん、草間さん、ジョージ富士川、大阪の面々、信楽の…
「大事なものを大事にせい」と喜美子が直子に言ったように喜美子がこれから日常を生きるうえで喜美子に関わる人達は、「大事」な宝物です。
人との繋がりに感謝や敬意を払い、人の気持ちに寄り添って日常を生きる事も人生の「究極」なのだとうことも『スカーレット』には、込められているのです。
縁側で、みかん
最終回で、貴美子と八郎の縁側で「みかん」を食べるシーンがありましたが、これは、同じ縁側でみかんを食べて夫婦に亀裂が入ったシーンに繋がるものでした。
「夫婦の危機の象徴」だった縁側のみかんが、最後にああいう形で穏やかに回収出来たのはよかったです。
喜美子と八郎は、再婚こそしなかったけれど老境に入る二人の穏やかな関係性を暗示しているようでした。
そして、二人の間には、息子の武志がいつでもいるのだというのも分かりました。
きっと八郎は、再び長崎の「土産話」でも持って来てあの縁側に座るのでしょう。
しぼり菜リズム
最後に描かれた再び穏やかに生きる喜美子の日常は、ドラスティックではなく神山清子さんの作品のように滋味深いものでした。
そこから、私も日常を大切にして日々、生きていきたい思った次第です。