父の「納骨」が終わり、一区切りが着きました。
父が亡くなって、葬儀から死後の手続きなどに忙殺されていましたが、徐々に落ち着いてくると寂しさが募ります。
1年以上の闘病生活で、いつ亡くなってもと常に「死」を覚悟していましたが、もう永遠のお別れなんだと思うといたたまれない気持ちになります。
温かな父の手を握ることも叶わないのです。
亡くなってからもしばらくは、父がいた病院へ行くバスを追い掛けるようバス乗り場に足が向きました。
あのバスに乗れば、父に会えると。
亡くなったのを受け入れるのは、簡単な事じゃないです。「死」を受け入れるのにもう少し時間が必要です。
子煩悩だった父
子煩悩な父は、私と妹が幼い頃、よく自転車の前と後ろに二人を乗せて散歩に連れて行ってくれました。
子どもの頃は、毎年のように夏休みの日直のときは、勤め先の小学校に私を連れて行ってくれました。
子ども達のために、岩波少年文庫の全集など本を沢山買ってくれました。
そんな父に対して思春期を境に、遠巻きに接していました。大人になり切れず、テレもあり会話もせずに避けていた時期も長かったです。
それでも父は、嫌な顔をひとつもせず、黙って接してくれました。
父の眼差しはいつも変わらず、穏やかでした。静かで、決して自分の感情を出すことはありません。
明るく社交的な母は、「太陽」。
それに対して、物静かな父は「月」でした。月の光は柔らかく、どんなときでも道を照らしてくれました。
父は、いつでも私達家族を優しく、見守ってくれたのです。
神様が与えてくれた時間
無口な父とは、思春期頃から少し距離を置いていました。
しかし、父が入院して亡くなるまでの1年余りは、父との人生で一番、濃密な時間が持てたと思います。
今まで、あまりしゃべったことがなかった父とよく話をしました。夏には、父の「戦争体験談」も初めて聞きました。
口元や足や手のマッサージで、父の体に触れたのも物心ついてからは、初めてのような気がします。
しっかりと手を握る機会を持てたこの1年は、「神様」が与えてくれたかけがえのない時間だったと思います。
それは、別れに向けた「準備期間」でもあり、父と過ごす時間を共有しゴールへ向かうための時間だったと思います。
父の場合、別れに向けた準備期間が、たっぷりありました。しかし、点滴が思うように出来なかった最後の1が月は、「愛別離苦」の思いでした。
病室を後にするときの何かを訴えるような父の表情に後ろ髪を引かれこともしばしばありました。
しかし、今思うとこの時期は「命」が決してバラバラで孤独なものではなく、終末という時点から見ると、家族が支え合い、励まし合う「貴重な時間」であったと思いました。
でも…
私や家族にとってこの1年ほど父と濃密に過ごした時間はないと思っています。
しかし、これは父にとってはどうだったかと考えることもあります。
「脳腫瘍」の手術をしたこと自体、父にとってはよかったのか。自宅でも介護を諦め、家に帰ることが叶わなかったことは、父にとって悔いが残ってしまったのではないか。
父の「自己決定」を尊重し、「尊厳ある死」を全うすることが出来たのか。
今でも思いが巡り、自問自答します。
特にリハビリ病院で、半年ぶりにゼリー以外にご飯やミキサー食のおかずを食べたときの輝いた表情から一転。
食べることもままならなくなり、死を待つばかりの「無念」が言葉では、表現しないけど痛いほど伝わってくることがありました。
あれだけ食べたがっていたのだから、最後まで食べさせてあげたかった。
どんなに辛くても生きたがっていたのに、どうにもしてあげられなかった。そんな後悔が、頭をよぎるのです。
新たなスタート
落胆し無念の思いがあっても、我慢強く、全てを受け入れたのも父でした。
痩せ細った手や足に残った点滴痕は、愚痴をこぼすこともなく、気丈な精神力で生き抜いた父の「証」かと誇らしくなりました。
いつかあの世に行けば、父と会うことも出来ると信じていたいです。出会った人との間には、必ず別れが訪れ避けられません。
別れは、その人が広めてくれた世界をより深く深く掘り下げてくれます。失って初めてその存在意義に気づき、与えられた物の大きさを学びます。
改めて父の「人生」や「死」を考えることで、深く味のある人生になっていくことでしょう。
今回、父を見送って私達家族の新たなスタートが始まったのかもしれません。
しぼり菜リズム
皆、大事な人を失っても、故人の事をときどき思いだしながら頑張ってるのだと思います。
今、父は、私の中にいるような気がします。姿は見えませんが、これからは、心の中でいつでも話せるのが楽しみです。