この夏はあまりにも暑いので、少し涼し気な話でも。
誰かが、私の自転車を押してくれている
霊を見たことありますか。私は、見たことはありませんが、「霊」に出会ったことがあります。それはもう、毎日のようにです。
40年ほど前に就職して、職場へは自転車で15分ほど掛けて毎日、通勤していました。
初めての職場に胸躍らせて通勤してかといえばそうでもなく、思い描いた職場と実際の環境とのギャップに気が重い日々を過ごしていました。
そんな風なので、毎朝、自転車を漕ぐ足も重く、職場が近づいてくるとそのまま引き返して帰りたくなる程でした。
職場まで続く幹線道路を自転車で走る途中、僅かな傾斜が数メートルあります。行きは上り坂になる道を走るときは足に力を入れ、お尻を浮かせて漕いだりします。
その辺りではいつも、汗がうっすら滲んでくるほどでした。
がある頃から、その坂道を漕ぐ足が軽く感じるようになりました。一生懸命に漕がなくても、自転車がスムーズに進むのです。
まるで、誰かが後ろから自転車を押してくれているような感じです。そうなのです。誰かが、自転車を押しているのです。
でもその気配に後ろを振り向きますが、誰もいません。もう一度振り返りますが、やはり誰もいないのです。
自殺した人
どのくらいの期間か覚えていませんが、しばらくその道を通ると急に自転車を漕ぐ足が軽やかになり、気が付くとかなりのスピードで飛ばしていました。
まるで、「電動自転車」に乗っているようでした。
そして、毎朝、私の自転車を押してくれる「誰か」の存在を感じながら走っていたのです。
毎朝、私の自転車をせっせと押してくれる誰かは、私が思うところ「自殺した人」の「霊」だったようです。
立ち漕ぎする坂道の途中に歩道橋があり、そこから飛び降りて自殺した人がいました。
「毎日、通勤で横を通るあの歩道橋?」とその話を知ったとき思ったものでした。
それが、頭に残っていたからか分かりませんが、その後から自殺した現場附近を過ぎると、妙に自転車を漕ぐ足が軽やかになるのです。
男性か女性か性別や年齢も知らない非業の死を遂げた誰かは、、歩道橋の横を過ぎた辺りから私の自転車の荷台に手を掛けて、何故か自転車を押してくれていたのです。
その人が、押している
その事故現場の歩道橋の横を通り過ぎたところから感じるのです。あまりに軽くて、誰か後ろから自転車を押していると。
いや、押しているに違いないと振り向くと誰もいません。でも、確実に誰かがいる気配があり、その見知らぬ誰かが後ろから自転車を押しているのです。
その感覚、決して嫌な感じではないのです。スィーっと毎朝、体が軽くなり、ときには自転車と体と風が一体になります。
職場が近付いて来て、いつも気持ちが重くなる重なる丁度その辺り、普段は、ペダルが重たくて必死に漕いでいたのに足と体が軽くなる場所になっていました。
歩道橋の横からは、ペダルを漕がなくとも軽やかで、まるで、心まで軽くなるような気分でした。
後になって、このことを思い出して同じ道を自転車で走ってみました。しかし、ペダルを漕いでいても何も感じません。あったと思った傾斜にも気が付きませんでした。
「アナタ、私の分まで頑張って!」
職場では、新人の女の子が入り、同年代の女性も異動してきて彼女達とライベートで、旅行や遊びに行くようになり私にとって楽しみが増えました。
職場へ行くことも、以前ほど嫌ではなくなってきたのです。いつの頃からか、私の自転車を押してくる人の気配は感じられなくなり、誰かが自転車を後ろから押していたことも忘れていました。
坂道の存在も気にならなくなり、重かった心もいつの間に軽くなっていました。もしかしたら、足が重くなる坂道は、「心理的な傾斜」だったのかもしれません。
自転車の後ろを押してくれた見も知らずな誰かは、マイナー気分で歩道橋の脇を通り過ぎる私を見て「アナタ、私の分まで、頑張って!」と背中を押さずにはいられなかったのではないのでしょうか。
私は決して「霊感」が、強くありません。どちらかというとそういうものには、疎い方です。亡くなってから出てきて欲しいと願った祖母さえも枕元に立ったこともありません。
後にも先にも人生で「霊」の存在を感じたのは、このとき一度だけでした。
しぼり菜リズム
通勤途中にある歩道橋で、人が亡くなった後から起きた不思議な現象。背後にその人の「霊」を感じながら走ったこと。
40年前の霊体験は、自分の心の中の「創造」だったのかもしれません。
心が元気になるとその「存在」を感じなくなったので、自分の役割は果たしたのだとそれから「成仏」して現れなくったのかもしれません。