老いること
母を見ていて、「老いる」ことはこんなことなのかと思いました。
年齢を意識する
85歳になった母は、最近、自分の「トシ」のことを会話に必ず入れます。
「もう、85歳だから」「85(歳)になったら、急に忘れぽくなった」「80過ぎたら○○が、出来なくなった」など否定的な言葉が目立ちます。
母は、自分の年齢にとにかく敏感なのである。年を取るとトシの話をするようになるという典型です。
もしかしたら、明らかに老いているに「老い」を認められないのではないかと思います。心と身体のバランスが不安定になっているということかもしれません。
生に執着する
母は、「ここまで、生きたからいつ死んでもいい」ともよく言います。
これも、実は「生」への執着の裏返しのような気がします。高齢になれば「死」を受け入れられると若いときは考えますが人は、それほど清くない。
人はいくつになっても「死」への覚悟が、案外出来ないのではないかと思うのです。85歳くらいなると忍び寄る「死」への不安が常にあると思います。
それが目の先にぶら下がっていて、手で振り払おうとしているのです。その不安を誰かに分かって欲しいので、そんなことを言うのではないかと思います。
人は、「達観」の境地になかなかなれないもの。実は、いくつになっても「生」への執着が捨てきれないのではと思います。
その他
高齢になると、昨日まで普通に出来たことが、今日突然出来なくなるということが起きます。母に言わせるとそれは、ある日突然来るそうです。
物忘れが、激しくなってきた母は人から聞いたことを一生懸命にメモをします。
でも、例えば父の入院関係のことで看護師などから聞いたことをメモしても、そのメモを失くすことがあるので私に話が伝わりません。
メモしたものが、溜まり整理出来なくなると必要なときに出てきません。結局、メモを取った意味がなくなります。
この頃、顕著なのが「固有名詞」が出てこないことです。物の名前や人の名前、地名や病院名など喉の奥ま来ているのに出てこない。
この他にも、疲れやすくなった。痛いところが多くなったなど自分でももどかしいようで、会うたびに聞かされます。
最近の母の傾向として、思い込みも激しくなっています。同じことを何度も言うようにもなりました。(トシヨリの典型ですね)
この1年で、出来なくなるとこと確実に増えたということで、子どもが、日々出来ることが多くなり成長するのとは、全く逆になります。
このように日々、老いを実感しながら生きている母なのです。
50代の老い
50代の私でも「老い」を意識することがあります。
若い頃の一番いい時期を100とすると、年齢を重ねると100が90になり、80になり50になっていきます。40代の頃は、100が90、80になりますが、実はまだ「90」や「80」なのです。
でもこの時期、自分の老化に結構落ち込みますが、これは100の時期の記憶がまだ鮮明な時期で、それと比べて「衰え」を強く意識してしまうのです。
体や外見の劣化を現実に受け入れたくなく「若さ」に執着し抵抗します。美容にお金を掛け、必死に若作りをします。でも、今から考えれば、40代は、まだまだ若かったのです。
しかし、50代になると若い頃とは「ステージ」が違ってくると感じます。ワンランク下がったというか。
80代くらいになるとこのステージも日々、下がっていくということなのでしょうか。母は、坂を転げ落ちていくようだと言います。
50代になり「閉経」を迎えてさらに老化を感じますが、70代、80代に比べれば体や身体能力は若いはずです。
「閉経後」しばらく経てば体がそれに慣れ、その状態が「普通」になってくると母は言います。
50代から急激に「老化」する。女性ホルモン【エストロゲン】を失って、実感したこと
そして、私もそうですが、50代くらいから持病の1つや2つ抱えるようになります。同年代の友人と会うと、自分の体の不調(どこが痛いとかかしこが不調)が挨拶代わりになることも多くなりました。
命に関わるものでないにしても、自分の「体」を殊更に意識するようになります。でもこんなことは80代の母からすれば、まだまだ若いのである。
80代の母が、変わってきた
年齢とともに誰にでも老いは、やって来ます。でも、老いを抱えながらも生きていかなくてはなりません。
嘆き悲しんでばかりはいられないのです。
母くらいの年齢になれば、出来ないことが多くなるのでそんなときは、人に頼ることも必要です。自尊心を捨てて、ある意味「心」や「体」を人に預けることが大切なのです。
今まで母は、何でも自分でやり子どもには、やらせませんでした。自分でやらないと気が済まない。自分で、仕切らないと気が済まない性格でした。
当初、父の介護も在宅で、自分でやるという勢いでした。実際、母は、テキパキと何でも出来る方だったのでその感覚が残っていたのでしょう。
でも、出来なくなったことに思い悩むことがあったと想像しますが、以前に比べ現実を受け入れることが出来るようになりました。
出来ないことを認め、「老いては子に従い」、自分の体と折り合いをつけるようになってきたのです。
最近は、父のことなど私に任せてくれることも多くなりました。
同居している弟に掃除、庭木の剪定など家のことを色々と頼むようになり、自分の掌に握リ閉めていたものを徐々に手放そうとしています。
しぼり菜リズム
「あなたの年齢は、あなたが感じている年齢である」と何かで聞いたことがあります。
この言葉は、これから生きていく上でヒントになるような気がします。
年齢は、自分が感じた歳、思い込んだ歳で決まります。年齢は、単に「記号」だと考えれることなのです。
子どもの手が離れ、仕事をリタイアして好きなことを追求出来る60代から70代は、人生の「黄金期」です。これから、正にその時期を私は迎えます。
その黄金期に年相応の体と共存して生きていくことが日常となれば医療、介護に依存する時期まで、充実した人生を送れるはずです。
忍びよる、「老い」への不安と上手に付き合い、一日一日を充実して生きるかは本人の心の持ちようなのです。
そして、母のように高齢になったときは、出来なくなったことを素直に受け入れることです。人に頼むこと、甘えることも大切だと思いました。