先日、NHKの番組で『田部井淳子 人生のしまいかた』という晩年の5年間密着したドキュメンタリーを見ました。
登山家の田部井淳子さんは、2016年がんのため77歳で亡くなっています。私も元山ガールで、Eテレの『趣味悠々 田部井淳子の山で元気に!登山入門』もときどき見ていたので、親近感もあり番組に興味がありました。
病気のことなど晩年のことも書いた著書『再発! それでもわたしは山に登る』(田部井淳子・文藝春秋社)も読んだので合わせて、田部井淳子さんの素敵な「人生のしまい方」を紹介します。
元祖山ガール・田部井淳子
登山家の田部井淳子さんは、女性として世界で初めて世界最高峰エベレストおよび七大陸最高峰への登頂を達成しました。
二つの偉業に「女性初」という冠がつき、それまで男性社会だった登山界に革命を起こした女性登山家の先駆者なのです。
今の「山ガール」達に道をつけてくれたのが、この元祖「山ガール」の田部井淳子さんだと言っても過言はないと思います。
77歳で亡くなる寸前まで、闘病しながら海外や国内の山にも登り続けました。
そして、テレビや講演、著作を通して登山の魅力を発信続けました。
夫の政伸さんも登山家で、田部井さんの活動に理解し協力を続けました。
ママさん登山家として、子どもが生まれてからのエベレスト遠征もご主人なくては、達成出来なかったのでしょう。
病気になってからも常に寄り添い、正に夫婦2人3脚で歩んだ人生だったと思います。
本のご主人の後書では、家中の鍋釜に肉じゃがやカレーなどを作り置き、オムツを300枚縫ってエベレスト遠征に出発したそうで、田部井さんは、妻として母としても偉大だったと思いました。
「病気になっても、病人にはなりたくない」
番組では、がんに侵されながらも「病気になっても、病人にはなりたくない」と精力的に活動を続ける姿を追っています。
「治療をするために生きるのではなく、日常生活をおくるために治療をする」
これが、田部井さんの闘病の原動力です。
本によると「山に行くことが日常だから、山に行って下さい」と応援してくれる医師の協力もあったようなのです。
闘病中にもかかわらず、過密スケジュール。
病院で抗がん剤治療をした後に、術後数日後、腹水を抜いた後など病室から直行で、治療の合間に山や仕事に出る日々。
大丈夫かなあなどと思いながら本人は、楽しんでいる様子なのです。抗がん剤で、ボロボロになり弱った体でも無理しているというより、山やときには巨木からも力をもらい全身で、山や人生を楽しんでいるようでした。
がんを受け入れつつ、最大の時間を使って楽しむ。
人間らしく歩けるうちは歩き、楽しむものは楽しんで終わろう。
など「病気になっても、病人にはなりたくない」という田部井さんの哲学が、エネルギッシュな活動を支えているようでした。
「田部井」流人生のしまいかた
山の魅力を若い世代に伝える
特に晩年の5年間は、福島などの東日本大震災の被災地の高校生を富士登山に招き「元気を出してもらおう」とプロジェクトを立ち上げ支援していました。
「一歩一歩登っていけば、必ず頂上に着きます」と生徒たちを励まし、自らも一緒に登りました。
テレビでは、高校生の雨の辛い登りの顔や頂上を達成して戻って来たときの充実した笑顔を写していました。
多感な時期に富士登山で得たものは、きっと人生の「糧」となるでしょう。
何よりも山登りの辛さも含めた楽しさを知ってしまえば、山に行かないと禁断症状が出てしまうという重症の「山」中毒に侵された田部井さんの企みに見事にはまってしまった哀れな高校生も出たかもしれません。
若い頃私もそんな感じで、山登りに目覚めてしまったのでね。
田部井さんは最期まで、山登りの普及に尽力を尽くした人生でもあったのです。
苦しい時こそ、明るく楽しむ
がんの腫瘍マーカーが上がり、落ち込む夫に明るく「次々と手はある」と最先端の医療を受け、その中でやれるものに一生懸命向かいました。
「頑張れ」という夫の言葉に、頑張っているのに、これ以上頑張らなくてはいけないのと怒られ、それから「楽しくやろうね」と夫婦で実行しました。
「苦しい時こそ、明るく楽しむ」という極限の山の世界で生きてきたから、苦しい闘病生活があったからこそ前向きで、ユーモアを忘れずに全力で生きることが出来たのかと思います。
人生のしまいかた
山を愛し、夫を愛し、人々との出会いを最期まで大切にしました。大きな愛で包んだ人生と同時に愛に包まれた人生だったと思います。
これは、亡くなる5日前に病室で書いた最後のメッセージです。
素敵な「田部井」流人生のしまいかたで、幕を閉じたのではないかと思います。