の続きです。
妙正寺と井口氏
妙正寺は、井口氏の菩提寺でもあります。
なので、墓地を歩くと井口家の墓石がとても多いです。
その井口家に関連する「井草の五輪仏」が、永代供養墓の敷地内にあります。
「井草の五輪仏」と呼ばれた二基の五輪塔は旧井草村でも最も古い墓石です。
当地を開拓し井草村を起こした井口豊前守夫妻を祀るため子孫が、この五輪塔を寛永2年(1625年)に長左衛門原(現桃井1丁目)の高所に建てて以後、村民はこの塔を「五輪仏」と呼び崇敬し長く井草村の発展を見守ってきました。
年月を経て題字が摩耗して判読不明になり消失した文字を古記録をもとに再現すると五輪の上から「妙」「法」「蓮」「華」の文字に右側「寛永元年 経妙正寺 八月四日」左側「寛永二? 経妙正寺 ?月十一日」とあったそうです。
この五輪仏は、「杉並区史探訪」(森泰樹著 杉並郷土史会)によると1970年代には出所不明で四面道の辺りの墓地→下高井戸の龍泉寺→今川の観泉寺へ
井口家の先祖というのが判明した後に井口一族の菩提寺である妙正寺に移されたようです。(著書が書かれた当時は、妙正寺に移す計画と書かれています)
また著書によると「井荻町史によると五輪の墓石3基ある」とあり、この2基のほかにもう一基あったことを示唆し
あったとしたらいつ頃、誰を祀ったか文字が腐朽して読めなかったので、土俗五輪仏として行方不明になったのかもしません。
もう一つ井口家にかかわるものが、「本因坊六世知伯の墓」です。
墓地入口に場所が書かれた案内板があったが、井口家の墓石の裏側にあるのですぐに分からず何度も探してしまいました。
本因坊とは、江戸幕府の扶持を受けた囲碁の家元のことで、6世の父は井草村の有力農民の井口半兵衛家の出でしたが、世襲制の本因坊になれたのは母が本因坊5世の姉だったから
この墓の本因坊家の六世知伯は、24歳で早世し、七世、八世も20代に亡くなり三代続けて当主が六段位で早世して七段に至らず、この30年ほどの時期は本因坊家衰微の時代と言われました。
しかし半兵衛一族は、財力、知的水準が幕府の役人の家と縁組が出来るほどで、碁打ちが出てもおかしくない土壌であったようで代々名主を努めた半兵衛家の実力が伺えます。
それにしてもお墓の周りに説明も何もないので、分かりにくいです。
妙正寺の正門のススキです。
沓掛(くつかけ)
妙正寺の三十番神堂は、安政3年(1856年)の大暴風により倒壊したが、安政6年に再建されています。
三十番神堂は、神仏習合の信仰で、毎日交替で国家や国民などを守護するとされた天照大神、八幡大神、春日大神などの30柱の神々(三十番神)を勧請し祀っています。
清水1~3丁目はもともと「沓掛(くつかけ)」と呼ばれていて沓掛の名前の由来が妙正寺と関りがあります。
妙正寺の三十番神堂のそばを川越や所沢へ向かう街道が通り、旅人達はこのお堂のそばで馬の「わらじ」(馬の沓)を替え一服するのが常でした。
「草鞋は米のなる草で作ったものだからもったいない」と捨てずにわらじを近くの木に吊るしておくと、妙正寺の住職がそれを燃やして供養したところから「沓掛」の名が生まれたということです。
沓掛公園(清水3丁目)にある馬の草鞋のブロンズです。
しぼり菜リズム(まとめ)
妙正寺は、井口氏の菩提寺で井口家に関連する「井草の五輪仏」があり、「井草の五輪仏」は、当地を開拓し井草村を起こした井口豊前守夫妻を祀るため子孫が、長左衛門原の高所に建ててて以後、村民はこの塔を「五輪仏」と呼び崇敬し長く井草村の発展を見守ってきたものです。
井口家にかかわるもう一つのものが「本因坊六世知伯の墓」で、江戸幕府の扶持を受けた囲碁の家元の井口家の六世知伯は早世し、七世、八世も20代に亡くなり三代続けて当主が六段位で早世して七段に至りませんでした。
妙正寺の三十番神堂のそばを川越や所沢へ向かう街道が通り、旅人達はこのお堂のそばで馬の「わらじ」(馬の沓)を替え一服するのが常で、替えたわらじを妙正寺の住職が燃やして供養したところからこの辺りを「沓掛」と呼ぶようになり、沓掛公園に馬の草鞋のブロンズのオブジェがあります。
妙正寺3 お寺の中の二つのお稲荷さんへ
<参考文献>
-
- Wikipedia「本因坊知伯」
- 妙正寺HP
- 「杉並区史探訪」(森泰樹著 杉並郷土史会)
- 杉並区HP
- 「総集版 荻窪の記憶」荻窪地域区民センター協議会
- 「すぎなみある区マップ 西荻窪・上井草編」杉並区等